CROSS to YOU. » year » 9月

月とヴァイオリン

十五夜

 僕はベッドに横になっていた。
 ラブホテルの一室。
 彼女――アズサはタオルをかぶっただけの格好で、一心不乱にエンピツをノートに走らせている。塾の宿題をやっているらしい。前から少しおかしな言動を取るヤツだとは思っていたが、ホテルで勉強しだすとはいささか心外だった。未成年だって言うのに、手には11mgのタバコ。その上なんだかよくわからないことをひとりでぶつぶつ言っている。
「カントにおける永遠存在たる物そのものは、・・・…」
お経でも唱えているんだろうか。
「……ということを踏まえて、微分法を発見したのはニュートンと誰だっけ?」と不意に彼女は訊いた。
――こんなとこまで来てニュートンかよ。自分で調べろヴォケ。
と、彼女のつれない態度に対する不平の声をなでつけて言葉を発した。
「ライプニッツだよ。いいからパンツ履け!」
「…で、15世紀の……」
 返事もしない。アズサは再びテキストに目を落とし、お経を唱え始めた。お前はパンツよりニュートンなのか。
 僕はふてくされて寝返りを打ち、テレビのほうを向いた。卑猥な画面。
――人間は本当にコレが好きなんだな。…まあ、僕もなのだが。
 画面の中の汗臭そうなオヤジと太った女。ストーリーなんか在って無いに等しいくせに、無駄に演技くさい、わざとらしい声、音、顔。とくに男の喘ぎ声はなえるので黙らせて下さい。
――真剣に意見している自分がむなしい。
 彼女もこちらのほうを向いた。にわかに目が合った。猫のような大きくて丸い目。マスカラをゴテゴテと塗ったまつげ。彼女はふと柔らかな笑みを口元に浮かべた。
「その男優、あまりにもアレだね」
――ええ、そうですよね。ハゲデブ汗と完全装備ですよね。僕もそう思ったところです。ああ、この人は他に僕に言うことがなかったのだろうか。僕への関心はそのハゲデブ男優以下か。
 彼女は、ホテルに行ってから塾に行くって発想があるくらいアホのくせに、宿題はシッカリやるくらい生真面目。総合するとただのバカだ。
時計を見た。三時間の休憩は、あと二十分程度で終わる。ホテルから出たら、同じ並びにある小さい塾に行く。
――何なんだろう、ホテルの隣にある塾って。いいのかそれ。
それとも塾の隣にあるホテルがおかしいのか?
…その前にこんな立地のホテルに行くなよって話だな。
でも安い割りにキレイで、トイレと風呂が分かれてる。これはオイシイ。
…いや、それはどうでもよくって……


 どうでもいいことをぐるぐる考え続ける。
 アズサは弛むことなく鉛筆を走らせる。
 画面の中の動作も途切れることなく続く。
 アズサは、洋モノは見るに堪えないらしい。
「皮膚の色、顔つきとか、いわゆる人種を分ける差は『性的趣向の差』なんだってさ。」僕は返事を期待しないでつぶやいた。
 以前人類学に触れたとき、あるアホな学者がそう主張しているのを読んで、それだ!と感動したのを思い出したのだ。
――アホ。皆アホ。
「大学に行こうが、どんな知識人になろうが、恋愛と健康とお金の悩みが頭の半分以上を占め続けるんだな。」斜に構えた独り言。聞き苦しいことは自分でもわかってる。アズサは手を止めて、こちらを見た。
「それを愚かだと笑う事は簡単だけど、実際問題、恋とお金とタバコ以外にあたしの日常に与えられている主題は少ないんだから、そうなってしまうのは避けようがないんじゃない?」と彼女は言った。
 僕は答えようもなく、テレビの画面に向き直った。僕だって、それが必然であろうことくらいわかっている。しかし避けられないとわかっていても、それを脱したくてジタバタもがいている僕がいる。僕が弾けもしないヴァイオリンを手放さないのも、大学の勉強を必要以上に頑張ってるのも、ただ小さな悩みを抱え生きることだけで精一杯な自分が許せないからだ。
「宿題、終わりそう?あと20分で出ないといけないんだけど。」答えの予想はついていたが、とりあえず訊いてみた。
「…うん。春樹も手伝って。」
――そうきたか。僕にはもう大学受験の知識なんてほとんど残ってない。
「自分でやったほうがたぶん効率イイよ」
「非常事態なんだってば。助けてよ。ま、これくらいやっておけば、あとは授業中になんとかできるかな」
 彼女はそう言って、タバコを灰皿に擦りつけ、テキストとノートを使い古された鞄に押し込んだ。鞄からは電子辞書ではなく、今時めずらしい紙の英和辞書や古語辞典がのぞいている。彼女によれば、電子辞書を持っていると簡単に単語の意味が調べられてしまって、単語の意味を類推する力が養われないらしい。
 アズサはのろのろ立ち上がって、ようやく服を着だした。シンプルなシャツに、ジーンズ。小さな花のコサージュがついた黒のパンプス。行動が少しおかしい以外は、一見普通の女子高生。彼女は地方の中堅高校からいわゆる一流大学へ行こうと日々努力している。
 アズサと僕が知り合ったのは、僕が大学に入りたてで、予備校の講師をしていたとき。アズサはそのとき生徒だったが、講師だった僕と付き合いだして、そのことで周りの眼を気にして予備校を辞めてしまった。それでこの立地の良くない塾に通っているというわけだ。僕も気まずくなってしまって、彼女を追うように講師のバイトをやめた。今は適当に飲食店の店員をやっている。

 塾の先生や他の生徒に見つからないように、こっそりとホテルから出た。塾まではほんの20メートルだ。時刻は7時。残暑が厳しいとはいえ、夜風はもう十分に涼しい。黒い空には月が出ていた。
 僕は、月が好きだった。月は変わらないから。月と地球はずっと同じ面を、互いに突き合わせている。何もかもが変わりゆく世の中で、変わらない月を見ることは、なぜか僕を安心させた。。
 アズサの方を見ると、アズサも空を見上げていた。
 そっと手を繋いだ。重なる指先にかすかな温もりを感じた。
「勉強ばっかで、春樹にあまりかまってあげられなくてごめんね。」アズサは言った。
「いや、ありがとう。勉強で忙しいのに付き合ってくれて。」僕は素直にお礼を言った。アズサがギリギリまで僕に付き合って、それでこんなとこで宿題をするはめになってしまったというのにふてくされていた自分が急にすごく恥ずかしくなった。
「ううん。これは私の信念なの。今の私の最大の願望は、K大学に合格することなんだけど、あたしはそのために他の全てを犠牲にするわけにはいかないの。」
 仕事と恋愛、どちらも彼女にとって大事で、クオリティを落とさずに両立させようとしている。アズサがホテルで宿題なんて奇妙な言動を取ったのは、彼女がアホだからでもバカだからでもない。彼女はいつでも、生真面目で、責任感が強すぎるだけ。この時期、受験と恋愛をどちらも全力投球で両立させようだなんて、それは無理だ。
「私は、かならずK大学に行かなきゃいけない。でも、だからって、それが私の全てじゃない。受験のために、春樹を無視して放っておいたり、ないがしろにすることは間違っているとしか言いようがないの。」彼女はそう付け加えた。

 彼女は絶対に悪気がないのだけど、僕は何か釈然としなかった。
――僕をないがしろにしたくない、だって?アズサの中では、僕に会うことも、受験や仕事と同じで『義務』なのか?僕の存在は、アズサにとって助けになったり、励みになったりするものじゃないのか?。
 彼女に必要とされたい。彼女を救いたい。しかし彼女のそばにいたいというその願いが逆に彼女の重荷になっている。それじゃ、彼女にとって僕の存在価値って何なんだ?彼女の人生の試練のひとつとでも言うのか?そんなことがあってたまるか!
 そこまで考えて、自分の女々しさに気付き、溜息をつく。アズサの眼は月のように凛とした光を帯び、ゆるぎない意志を湛えている。しかし悲しいことに、彼女の力強さが、僕の愚かな感情に拍車をかけた。

 「君に会いたい」
 もしアズサの口からこの言葉が発せられたなら、どれほど楽だっただろうか。
 僕は再び月を見上げた。透明な光が円形の輪郭をにじませている。
 結局のところ、僕はただこの一言を欲していただけなのだ。彼女に求められたかっただけなのだ。アズサを助けたいというのは、彼女を想ってのことと自分に思い込ませていたが、本当のところは彼女に必要とされたいという僕の欲望だっただけみたいだ。

――アズサは、どうしてつらい思いしてまで僕と付き合っているの?疲れてるならやめれば?

 そんなこと、とても言えない。こわくて。臆病者と言われても、仕方ない。僕のくだらないプライドが「彼女に付き合ってもらってる」って感覚を敏感に察知して、反発しているだけなのだから、今は少し冷静になればいい。


 彼女は塾に行った。僕は、することもないので家に帰った。家に帰ってヴァイオリンを取り出し、クライスラーの「愛のよろこび」を殴るように弾いた。弦が切れそうなくらいに大音響で。
自分自身で発した言葉――どんな知識人になったって、結局悩むべきことは変わらない、恋愛の痛みから逃れることなんかできないってことが脳に響き渡る。僕は自分の低俗さが許せなかった。いや、それを低俗だと揶揄すること自体が間違っているのかもしれない。
「僕は仙人にでもなるつもりなのか」と、僕は独り言を言った。
 愛は、必ず人を傷つける。僕の両親は離婚し、僕は父親に引き取られた。離婚する直前、母は狂っていた。専業主婦であった母は、父が世界の全てであり、父との愛が彼女の全てであった。
 しかし、父とうまくいかなくなったこと、たったそれだけのことが母を哀れな狂女に変えてしまった。母は父への恨み言を叫び、僕を睨みつけて、自らの手首を切り、そして少女のように咽び泣いた。そんな母を見たくなかった。愛は、決して不変ではない。いつ様相を反転させるかわからない、危険なもの。
――月のように、いつでも同じ面を向けていてくれればいいのに。
 そして僕はヴァイオリンを手に取った。また、学問に打ち込んだ。僕の頭の中で、「恋愛」の占める割合が小さくなるように。もし僕が母と同じ立場に立ったとして、母のように心を乱されないように。
 しかし、ひっきょう、それは無駄な努力だったようだ。アズサの一言に翻弄され、ヴァイオリンを八つ当たりのようにかき弾く自分がいる。
 僕はひとり、窓辺に立ち月を見上げた。胸の当たりに得体の知れない黒い穴が空いて、胃や心臓が吸い込まれていくような感じがした。苦しい。アズサの月のような丸い目が思い出された。凛とした光。ゆるぎない意思。僕にも、そんなものがあればよかったのに。僕のこの感情も、何もかもを超えて、僕の生活を照らし出してくれる月があればよかったのに。


 その夜、僕はアズサに電話して別れを告げた。
 「ごめん。別れよう。」
 僕の口から出た言葉は、それっきりだった。――自分でもびっくりだった。
 アズサと付き合う理由なんて、「アズサが好き」というただそれだけで良かったし、アズサが僕と付き合う理由もまたそれで良かったはずだった。ただ、それだけのことなのに、僕は自分のこの感情に胸が押し潰されるのがこわくて、心に裂傷を負うのがこわくて、どうしようもなくって逃げ出した。
 アズサにどう思われていようと、僕がアズサを好きなことには変わりない。変わりないからこそ、撥ねつけられたときの痛みも大きい。しかしアズサの置かれている状況――将来が決まる岐路に立たされていることを思えば、僕が傍にいない方がいいことはわかりきっている。
――しかしそう思うことすら、アズサを慮ってのことではなくて、僕がアズサに必要とされていないことが苦しいから、傍にいれないだけなんだ。
 そんな弱い自分を許せるほど、僕はできた人間じゃなかった。
 しかし、アズサの言葉は僕をさらに驚かせた。
 「ありがとう。きっとまた会えるよね。」
 次の瞬間、僕は電話を切っていた。言葉の意味を咀嚼する間もなく。
 もう予備校のつながりもないので、これでアズサとの縁は切れたといって差し支えない。お互い自宅の位置も知らない。恋人同士でさえ、人と人のつながりって案外薄いものだな、と自虐的に笑ってみた。そんな風に思いたくないからこそ、心が痛かった。
 窓の外には大きな満月。今にも涙が零れそうな瞳のような月。窓から月光が差し込む。その明かりを頼りに僕はヴァイオリンで「愛の悲しみ」を、とびっきり明るく、軽快に奏でた。ずっとずっと、壊れた蓄音機のようにヴァイオリンを奏で続けた。

少年は荒野をめざす / m