夏みかんエール

会社帰りに、山手線に乗って、ちょっとだけの寄り道。
恵比寿ガーデンプレイス内にある恵比寿麦酒記念館で
200円でビールを一杯飲む。
カウンターのバーテンの注ぐ技がすごいのか、
ここで飲むビールは最高に美味しい。
定時に帰れる派遣だからこその楽しみだ。
もちろん一杯だけだから、私が外でお酒を飲んで帰っているなんて親にもばれていない。

27歳を過ぎた途端、
友達が一斉に結婚して、子どもを生んだ。
そうでない子は、仕事で認められてそれなりの地位につき、
どちらも仕事や家事で「忙しい」「忙しい」しかメールの返事を寄越さなくなった。
私はそんな発展のないメールのやりとりをやめた。
ここ半年程、私の携帯は沈黙を守っている。

私自身は、といえば派遣社員なんて宙ぶらりんの身分で、
別段、頑張るでもなく、与えられた仕事だけを黙々とこなして、
終わったら帰る、の毎日を繰り返している。
母親は自立もしないで実家に居座る私に「いい人がいたら、早く結婚しなさい」
と最近しつこい位言ってくる様になったが、
2年前に別れたきり、そんな相手はいない。
今更恋愛で、泣いたりわめいたりするのは面倒だ、と思っている。
今の私には、黙々と働く以外何も出来ないのだ。
何もかもが面倒で仕方がない。

こんな風に、すべてを投げ出してしまう前は、
ちゃんと就職した会社で働き、付き合いも良くて、よく同僚と飲みに行った。
羽目を外して、翌日は二日酔いでフラフラしながら
課長に「お前なぁ酒臭いんだよ」と苦笑されて謝った。
社内恋愛だって、密かにしていた。

だけどある日、見えてしまったのだ。
このまま何年かここで働き、彼と結婚して退職して、
家庭に入ってどんどん所帯じみていく、自分の姿が。
結婚して家庭を持つ事が、普通の女の夢だと言われても、
私には退屈で退屈で、自分を腐らせる道だとしか思えなかった。
いつか彼は私の他に、外で女を作って、
それでも子どもがいるから家に帰ってくる。
私に魅力がなくなっても、惰性と連帯感で彼を縛る事が出来る。
そんな未来は嫌だった。

彼は「何故別れなきゃいけないのか、俺には判らない」と嘆いたが、
私は一方的に彼を避けた。
彼は会社でも、執拗に私を追いかけるようになった。
話にならなかった。
あっという間に会社中の噂になって、私は逃げるように会社を辞めた。
25歳の頃の事だ。

以来私はまともに就職する気にもなれずに、
派遣会社に登録して仕事を貰っている。

今日は、半年ごとに来る、契約更新の日だった。
契約会社の方に出向いて、コーディネーターと事務的に話をした。
今の会社は初めて契約してから、1年以上ずっと続いている。
また更新して貰える事になった。給料面は変わらなかったが、
それも私の仕事ぶりでは仕方がないだろう。不満はなかった。
16時に更新の手続きを終えて、銀座から歩いて有楽町駅で山手線に乗る。
いつもよりも時間がかかるけれど、17時の閉館に間に合う。
スカイウォークの上を早足で歩きながら、私はあのビールの味を思い出す。
ビールの泡が口の中で弾ける感覚だけが、今の私の、たったひとつの楽しみだった。

館内の展示品はもう覚える程見てしまった。
試飲コーナーに直行して、券を買う。
ふと見ると、ショーケースに限定で「夏みかんエール」が並んでいた。
そういえばじっとりと汗をかいている。
また何も変わらない夏がやってきたのだ。
確かに柑橘系のさっぱりした爽やかさが欲しいと思ったが、
限定ビールは4種類のビールを頼む「お試しセット」でしか飲めない。
ここでビールを飲むのは一杯だけ、と決めていたから、
まだ一度もセットを注文した事はない。
ぐい、とボタンを押した。

きっと、私は彼が好きで好きで、愛しすぎていたのだ。
だから自分に魅力がなくなっても彼を縛れる事が、
たまらなく嫌だったのだ。
すべてを得る事が出来ないのならば、すべてを捨ててしまおうと、
自分から手を離してしまった。
全部を望んでしまう自分が怖くて、私は何も望まないように努めているのだ。
絶望もない代わりに、何も望んではいけない。
そう自分に課した。

それなのに、何度自分の番号を変えても、メモリーに登録を繰り返していた彼の番号。
彼はまだ携帯の番号を変えていないだろう、そんな気がする。
小さなコップに注がれた「夏みかんエール」を飲み干して、
私は彼の携帯番号に電話をかけ始めた。

monochrome / tomoakira