ベストフレンド

 朝から降り続いた雨も、どうやら終わりを迎えたらしい。
 雲の切れ間から覗く太陽が、ひどく眩しく感じられる。
 手近なベンチに腰を下ろし、ボクはホッと一息をついた。
 片手でネクタイを緩めると、ようやく仕事を終えた充実感が湧いてきた。
 初めて一人で発案し、成し遂げることができたプロジェクト。
 満足な成功に、自然と笑みがこぼれてくる。
 ……だから、なのだろうか?
 ボクの足が、自然とこの場所へ向いたのは。
 ゆっくりと、周囲を見渡してみる。

 山手線・代々木駅──

「……変わらないな、ココは」
 変わらないハズはない。
 あちこちに貼られたポスターはもちろん、記憶にある風景との相違点は多いだろう。
 けれど、ヒトが集まり別れ、そして運ばれていく交錯点である『駅』という機能は変わらない。
 外観がまるまる別物になったとしても、その点において、駅は不変な場所と言えるだろう。
 簡単に言って、この駅はボクに取って『特別な場所』だった。
 東京にやって来て、初めて移り住んだ土地ということもある。
 それ以上に、“彼女”との思い出の詰まった『大切な場所』……。
 予備校や各種専門学校がたくさんある街──そんなあやふやな知識しかなかったボクに、新しい世界を与えてくれたのは、彼女だった。
 長い髪が、プラットホームにキラキラと輝く。
 ボクが呼びかけると、彼女は弾けるように振り返り、そしてゆっくりと微笑んだ。
 ……暖かな、その笑顔を覚えている。

 出逢いは偶然。
 同じ学校で、たまたま隣合っただけの縁。
 話すうちに、同じ地方の出身であることがわかり、ボクたちの仲は急速に近づいていった。
 彼女とは、本当によく気があった。
 とはいえ、ボクの彼女に対する想いは、決して恋愛ではなかった。
 彼女もまた同様で、それがボクたちの仲を長く深くさせたのかもしれない。
 ──話していて、単純に楽しい。
 ──好奇心の方向が同じ。
 ──価値観が似ている。
 ボクの隣には、いつも当たり前のように彼女はいた。
 初めて見た時と同じ、暖かな笑顔を浮かべながら。
 この駅で待ち合わせて、ボクたちはいろいろなところへ出かけて行った。
 春になって、桜を見るために集まったこと。
 はらはらと散る花びらの向こうで、彼女は嬉しそうに笑っていた。
 夏になって、花火が見たいと無邪気に告げたキミ。
 空を覆う花弁と轟音。
 瞬間の閃光に照らされる彼女の瞳には、ボクの笑顔が映っていた。
 秋には秋の、冬には冬の楽しみがあることを教えてくれたのは彼女だった。 
 二人きりで過ごした夜も、一度や二度ではない。
 もちろん、ボクたちの関係は相変わらず「すごく気の合う“タダノトモダチ”」で、それ以上の関係など想像したこともなかった。
 ──彼女といると、とても楽しい。
 ──彼女といると、肩の力が抜ける。
 ──彼女といると、時間を忘れる。
 ボクたちの関係は、周囲の人々にはひどく奇妙なモノとして映っていたのかもしれない。
 友人たちには恋人として誤解され、躍起になって否定しなければならなかったほどだ。
 “恋人ではないが、大切なヒト──”
 ボクが信じた、友情のカタチ。
 ボクが望んだ、不変のカタチ。
 だから、彼女に恋人ができたと告げられた時も、ボクはまるで自分のことのように喜んだ。
「……あたしなんかに魅力があるのかな?」
 おどけるように、彼女は言う。
 年齢を重ねる度に、綺麗になっていく彼女。
 そんなキミを放っておく馬鹿などいないと、ボクは高らかに笑ったものだ。
 いつも傍で見てきたボクだから、きっぱりと断言できる。
「──大丈夫。きっと上手くいくよ」
 ボクの言葉に、はにかむように彼女は微笑んだ。
 少しだけ、寂しく微笑んだ。

 彼女に恋人ができた後も、ボクたちの関係はなんら変わることはなかった。
 いつものように、くだらない会話をして。
 いつものように、この駅で待ち合わせて。
 逢う回数こそ減ったものの、交わされるコトバとエガオに永遠を見た。
 ……そう、信じたかっただけかもしれない。
 月日は流れ、ボクたちはもう学生ではなくなったけれど、彼女と逢うことはボクに取って楽しみであることに変わりはなかった。
 新しい環境のこと。
 仕事のこと。
 恋人のこと。
 ボクたちは、いつまでも飽きることなく話し合った。
 ──彼女といると、ココロが落ち着く。
 ──彼女といると、イライラが消えていく。
 ──彼女といると、最近……なぜか、悲しい。
「あたしね、結婚が決まったの」
 そう告げられた時も、ボクたちの関係が終わるとは夢にも思いもしなかった。
「招待するから、式には絶対に来てよね」
「当然だろ。絶対に行くよ」
 ボクたちは笑いながら約束した。
 結婚式を一週間前に控えたあの日、ボクはいつものように彼女をこの駅に呼び出した。
 渡したいモノがあったからだ。
 彼女のために選んだ、精一杯の贈り物。 
 これからの彼女の未来のために、心からの祝福を込めて。
 彼女の好みは、ボクが一番よくわかっている。
 びっくりさせる自信はあった。
 案の定、ボクのプレゼントに彼女はひどく驚き、そして最高の笑顔をボクに向けてくれた。
 それから、ボクたちは駅のベンチに腰を下ろし、他愛もない会話を繰り返した。
 式本番を控え、ともかく忙しい日常のこと。
 これからの将来に対する喜びと不安。
 二人で過ごした過去の出来事。
 ボクたちの前を何度も電車は通り過ぎ、様々な表情を持った人々が通り過ぎていく。
 楽しい時間は、終電まで続いた。
 最後の電車を待つ数分間、それまでの陽気さが嘘であったように、彼女は黙って地面を見つめていた。
 その腕に、ボクが渡したプレゼントがある。
 最終電車が、音を立ててプラットホームに入ってきた。
 彼女はゆっくりと顔を上げ
「……ホント、優しいんだから」
 ポツリと呟く。
 ボクが今まで見たことのない、見知らぬ女性の顔で
「……あのね……あたし、本当はアナタのこと、好きやったんよ」
 囁くように故郷(ふるさと)の言葉で告げると、逃げるように電車に飛び乗った。
 呆然と立ちすくむボクに、彼女は明るく手を振ると
「じゃあね! 今日はありがとう!!」
 先程の告白などなかったように彼女は微笑み、その姿はドアの向こうに消えた。
 電車が走り出す。
 彼女を乗せて、最終電車はボクの前から走り去った。

 ──その夜、ボクは彼女の夢を見た。
 初めて見た彼女の表情。
 見慣れたハズの暖かな笑顔は、どこか寂しそうに歪んでいた。
 ハッとして目を醒ました。
 ……気がついてしまった。
 自分の心の奥底で眠っていた強烈な想い。
 無意識のうちに押し込めてしまっていた感情の正体。
「……好きだったんだ、彼女が」
 暗闇の中で、一人呟く。
 口にすると、より深くその事実を痛感した。
 そう──
 たまらなく。
 どうしようもないくらい、たまらなく。
 ボクは──彼女が好きだったんだ。
 優しいクセに気丈なトコロとか。
 しっかりしているクセに抜けているトコロとか。
 スラリと伸びたそのカラダとか。
 そんなことは関係がないくらい。
 ……好きだったんだ、彼女が。
 きっと、たぶん。
 いや、間違いなく。
 ……出逢ったその瞬間から。

 ボクは
 彼女に
 恋をしていた──

 愕然となった。
 ……なんていうことだろう。
 ……なんで、今になってそのことに気がついてしまったんだろう。
 ボクは自分の感情に鈍感で──本当にイヤになってしまうほど鈍感で。
 気がついた時には、何もかもがすべて遅すぎるのだ。
 その日を境に、ボクは彼女と連絡を取ることができなくなってしまった。
 何を話していいかわからなかったし、彼女の声を聞くと何を口走ってしまうのか、ボクは自分に自信がなかった。
 幸せを間近に控えている彼女に、結末はどうであれ迷惑をかけたくない。
 だから、ボクは彼女とは逢わなかった。
 逢えなかった。
 あれほど約束したにも関わらず、ボクは結婚式に顔を出すことができなかった。
 そのことについて周囲から散々責められたものだが、ボクは言い訳の一つもできなかった。
 心配した彼女からの電話にも出ることができず、訪ねられても居留守を決め込んで──時間の経過と共に、二人の関係は完全に断絶した。
 ぽっかりと心に穴を空けたまま、埋めることもできず、ボクは自分の気持ちに整理をつけることに必死だった。
 約束を守れなかった──絶対に行くと誓った結婚式で告げられなかったコトバが、小さなトゲのよう今もボクの心に突き刺さって取れない。
 ……最後に見た、彼女の笑顔を覚えている。

 時間にしてみれば、ほんの数分のことだろう。
 電車の到着を告げるアナウンスが、感慨に耽るボクの意識を現実に引き戻した。
 ひどく感傷的になっていたらしい。
 最初にあった仕事に対する高揚感は消え、代わりに何とも言えない寂寥感がボクの心を満たしていた。
「……やっぱり、この駅に来るんじゃなかったかな……」
 まったく、いつまで経っても煮え切らない。
 苦笑を浮かべ、思考を切り替えるようにボクは顔を上げた。
 視線が、何気なくプラットホームの反対側を彷徨う。
 思い出の詰まったこの駅には、見えない力でもあるのかもしれない。
 ──そこに『彼女』はいた。
 心なしか、少し頬がふっくらとした気がする。
 記憶にあった長い髪は、肩口で綺麗に切り揃えられていた。
 それでも、ボクが彼女を見間違えるハズがない。
 ……なんという、偶然。
 呆然と見つめるボクに気がつくことはなく、彼女はそこに佇んでいる。
 当たり前のように。
 以前と変わらない笑顔で。 
 その笑顔が、彼女の足元に向けられていることに、ようやくボクは気がついた。
 つられるように、目で追う。
 そこには、彼女の手をしっかりと握りながら、小さなオンナノコが甘えるように彼女を見上げていた。
 面影が、彼女にそっくりだった。
 穏やかな笑顔に、温もりに満ちた感情で胸の中がいっぱいになる。
 ボクは自分の中にあったわだかまりが消えていくのを感じた。
 自然と、ボクの顔にも笑みが浮かんでいた。
「……よかった」
 この場所で、キミを見かけることができて、本当によかった。
 やって来た電車に、彼女たちの姿はすぐに見えなくなった。
 ひどく満ち足りた気分で、ボクは彼女たちを乗せた電車を見送った。
 何事もなかったように、電車は進む。
 ボクの想いも記憶も乗せて、今日も山手線は回り続ける。
 見えない彼女の背中に、ボクはそっと語りかけた。
「……幸せそうだね」
 相変わらず、元気そうでよかった。
 結婚式──あれだけ約束したのに、行けなくて本当にゴメン。
 それくらい、ボクはキミのことが好きだったんだ。
 本当に、大好きだった。
 だけど、ようやくボクはキミの思い出にサヨナラできる気がする。
 ──ありがとう。
 キミに出逢ったことで、ボクはほんの少しだけ大人になれた気がする。
 ──ありがとう。
 あの日、キミに伝えられなかったコトバを言うよ。
 ……結婚、おめでとう。
 いつまでも、いつまでも幸せに。
 恋人同士にはなれなかったけれど
 ボクたちは、最高のトモダチだった──

えす・ますたべの城 / 高嶺俊