パズルの欠片

 ……例えば、恋。
 ……例えば、イノチ。
 すべてに始まりがあれば終わりがあるように、昼夜を問わず走り続ける山手線にも、始まりもあれば終わりもある。
 品川駅が山手線の「起点」であることを知るモノは、意外と少ないのではないだろうか。
 品川駅の歴史は古い。
 一般に『鉄道発祥の地』とされる新橋駅よりも開設は早く、明治5年5月に仮開設されている。
 かつて、道を行くのに馬以上に速いモノはなく、鉄道の誕生は人々に深い感動と畏怖を与えた。
 多くのヒトと無数の荷物を乗せて進む列車。
 それは、時に『ヒトならぬモノ』すら乗せて運んだという。
 ──そんな都市伝説が生まれたのも、時代の流れなのかもしれない。
 新たな発明に、噂話は尽きることはないのだから。
 その後、山手線が幾多の変遷を経て現在の環状運転を始めたのは、大正15年とこれまた古い。
 行きかう人々の姿が和装から洋装に変わり、列車は電車となって、時代も大きく変貌を告げた。 
 それでも、品川駅が山手線の「始まり」にして「終わり」であることに変わりはなく、それが内回りであろうが外回りであろうとも、山手線は品川駅を中心にして回っている。

 ──どこまでもどこまでも、途切れることのない無限の円を描きながら。

 循環する輪は、ひどく不可思議な意味合いを持った符号である。
 ウロボロスと呼ばれた蛇が、宇宙を意味するように。
 ……例えるなら、それは恋。
 ……例えるなら、それはイノチ。
 循環するイノチを隠喩する円を描きながら、山手線を電車は走る。
 多くのヒトと荷物を乗せて。
 多くの記憶と想いを乗せて。
 そしてきっと『ヒトならぬモノ』さえ乗せて。
 ──今も昔も、山手線は回り続ける。
 いつまでも
 どこまでも
 途切れることのない、無限の円を。

     ※     ※     ※

「──ねぇねぇ、面白いコト、教えてあげよっか?」
 薄い笑みを浮かべて、少女が告げる。
 静まり返った電車の中に、甲高い声はよく響いた。
 迷惑そうな周囲の視線など気にとめることもなく、少女は友人を見た。
「……なによ、面白いコトって?」
 如何にもつまらなそうな顔で、もう一人の少女が言う。
 似たような顔つき、似たような格好、似たような喋り方。
 それが現在の流行なのかもしれない。
「この間さ、あたしのトモダチが大変な目に遭っちゃったのよぉ」
「へぇ」
 興味のない醒めた声にも、少女の笑みは変わらない。
 無神経な笑顔が、妙に腹立たしい。
 彼女は、この少女が嫌いだった。
 ──はっきりと、憎んでいると言ってもいい。
 無邪気さに満ちたその笑顔は、確かにオトコどもには愛らしく映るのかもしれない。
 実際、少女の言動に悪意はなかった。
 ただ、自分に正直なだけ。
 ただ、自分しか見えてないだけ。
 自分以外のコトを、少女は考えられない。
 だから──少女は彼女が自分を憎んでいるなど、これっぽっちも感じ取ってはいないのだろう。
 もしかすると、本気で忘れているのかもしれない。
 少女が彼女のカレを奪ったという事実を──
「ねぇ、聞きたくなぁい?」
 キラキラと瞳を輝かせて、少女は言う。
 言いたい、けれどそれを彼女の口から言わせたいのだ。
 諦めにも似た思いで、彼女は訊いた。
「……どんな目よ?」
「──ヒトが死ぬのを見ちゃったのよ」
 内容とは裏腹に、明るい声で少女は答えた。
 トビコミジサツ、そんな単語を口にする。
「あたしのトモダチが乗っていた電車に飛び込んできたんだって。それをね、モロに見ちゃったんだって」
 通学途中の電車で、それは起こったのだと言う。
「スゴかったらしいわよ。トモダチってのが、たまたま窓際に立っててね。ふと外を覗いていたら、急に誰かが飛び出してきて──何かゴンッていうかガンッていうか、ともかく大きな音がしたと思った途端、窓がバシャッと真っ赤に染まったんだって」
 少女の言葉に、向かいに腰を下ろしていた老婆が露骨に顔をしかめた。
「最初、トモダチには何が起こったかわからなかったらしいわ。怖いとか気持ち悪いとかいうよりも、驚いて理解できなかったのよ。だって、ヒトが死ぬなんて、あたしだって見たコトないもの」
 ニコニコと、少女。
 ──何がそんなに楽しいのだろう。
 ──何でそんなに笑えるのだろう。
 彼女の中に、暗い感情だけが積もっていく。
「でもね、想像するだけで怖いわよねぇ。電車に轢かれた身体って、びっくりするくらいバラバラになるんだって。それはそうよね、だってこんな大きなモノとぶつかるんだもの」
 言って、少女は自分の足元を指差した。
「──でさ、トモダチの乗ってた電車って、今あたしたちが乗っている山手線の電車なのよ」
 イタズラっぽく、笑う。
「ねぇ、面白いと思わない? もしかしたら、その時ヒトをバラバラにしちゃった電車に、今あたしたちは乗ってるのかもしんないのよ? もしかしたら、あたしたちの隣にあるこの窓に、まだその時の血液なんかがついているかもしれないのよ?」
 どこが面白いものか。
 奥歯がギリリと鳴る。
 冗談にしては、笑えない冗談だ。
 どこかリアルで、気持ちが悪い。
 吐き捨てるように
「……悪いけど、あんまり面白くないよ、ソレ」
「えー、想像力がないんじゃないの? ワクワクしたりしないの? まったく、それだからアンタは詰まらないって言われるのよ」
 ──それは、ただ口から出たコトバ。
 深く考えることなく滑り出たコトバに、彼女は過剰に反応した。
 ……それは、暗に奪われたカレのコトを意味するのか。
 逆上するココロを、必死に押さえる。
 当然、少女はそんな想いには気づかない。
 気づこうともしない。
「そーいえばさぁ、こんな話聞いたことある? 電車に轢かれたシタイってさ、駅員さんが集めるんだって。運転に差し障るからって、全員で慌ててかき集めるらしいけど。気持ち悪いと思わないかなぁ?」
「……気持ち悪いに決まってるじゃない。バカじゃないの。そんな話、誰だって知ってるわよ」
 彼女のコトバに、今度は少女が唇を尖らせた。
「──じゃあ、こんな話は知ってる?」
 言って、少女は挑むように彼女を睨みつけ
「シタイは駅員さんたちが必死になってかき集めるんだけどさ、絶対にその一部だけは、どう捜しても見つからないんだって。指とか耳とか、ううん、もっと大きな部分だって絶対に見つからない。どんなにキレイに死んだって、それは絶対に見つけるコトができないんだって。何年たっても……ううん、いつまで経ったって、それは決して見つかることはないの」
 それは初めて聞いた話だった。
 どうせくだらない雑誌で読んだ都市伝説か何かだろうが、彼女が知らなかったコトは事実だ。
 けれど、素直に頷くことはできなかった。
 まるで少女に屈服するようでイヤだった。
「……知ってるわよ、そんなコト」
「え~、絶対に誰も知らない、あたしだけの極秘情報だと思ってたのにぃ~!!」
 がっかりしたように、少女は叫んだ。
「……でも、さ」
 ちょこんとした仕草で、少女が首を傾げた。
 まるで先程のいがみ合いなどなかったような変わり身の速さに、彼女は完全に呆れた。
 少女に取って、所詮自分とはその程度の存在でしかないのかもしれない。
 いや、少女に取ってすべては関係のない他人事なのだろう。
 ──カレのコトも、きっと。
 ──ただのゲームにすぎなかったんだ。
 自分のコトにしか興味のない少女。
 自分の魅力を知るためだけに奪われたカレ。
 奥歯がギリリと鳴る。
「でも、なに?」
 乾いた声だと、自分でも思った。
「そのなくなったシタイの欠片って、一体どこにいくのかしらね?」
 消えてしまった肉体の欠片。
「……もしかして、まだ電車にくっついてたりしてぇ」
「冗談でもやめなさいよ、そういうことはっ!!」
 背筋を走る悪寒に、彼女は怒りを込めて叫んでいた。
「まったく……なにを考えてんのよ、アンタは。ヒトが死んでるのよ、不謹慎にもほどがあるってモンじゃないっ!」
 死者を冒涜したのだとか、そんなコトはホントはどうでもよかった。
 ただ、もう彼女の声を聞くのがイヤになった。
 ──何がそんなに楽しいのだろう。
 ──何でそんなに笑えるのだろう。
 彼女のすべてが憎かった。
 自分とは、あまりにも対極すぎて。
 その事実に、彼女もまた気づくことはなく。
「……冗談に決まってるじゃない。なによぅ、そんなに怒んなくたってぇ」
 怯えるような目の奥に、不遜な光を彼女は見た。
 唐突に、理解した。
 ……何を言っても、無駄。
 ……何を行っても、無理。
 それを、知った。
 明確な殺意と共に、彼女はそれを理解してしまった。
 ──このコは、死ななきゃわからない。
「……でもさ、シタイと一緒にツウガクしてるって考えたら、面白いとは思わない?」
 懲りることなく喋るコトバは、すでに彼女の耳には届かなかった。
「……シタイもどこかで降りるのかなぁ? シタイだけが降りる終点ってあるのかなぁ?」
 囁く声は、駅の到来を告げる声に消されて聞き取ることはできなかった。
 目的の駅についた。
 慌しく乗り降りする人々の間を縫って、少女たちも電車を降りる。
 ざわめくプラットホームを、線路と平行に歩きながら、薄い笑みを浮かべて少女は行く。
 その唇は、とても無邪気で残忍で、それはとても愛らしい。

『──私は、それをホシイ、と思った』

 少女は、言う。
「でもさ、シタイは何を思うんだろうね? バラバラになって、誰にも見つけてもらうことがなくて、どこへ行くのかもわからないで。あたしも、シタイになったらわかるのかなぁ?」
 おどけた風に振り返った少女の目に、少女が親友だと勝手に思い込んでいる友人の姿が映った。
 無表情な顔。
 ただ、瞳だけが激しい殺意を湛えて。
 そして、少女は見たハズだ。

 ──彼女の背後に立つ『私』の姿を、顔を、その正体を。

 本能で悟ったのだろう、怯えた仕草で少女は彼女と『私』に背を向けた。
 走り去ろうとしたのかもしれない。
 遅すぎた。
 すべてが、遅すぎた。
「……なら、アンタ確かめてくればいいじゃない」
 冷たく放たれるコトバ。
「シタイになってさ」
 少女の背中を、彼女は無表情のまま強く押し──そこに電車はやって来た。
 少女の瞳は驚愕に見開き、愛らしい唇は短いコトバのカタチを取った。
 ──ドウシテ?
 恐怖はなく、純粋な疑問を浮かべたままで。
 少女の身体は、人々の目の前でパンッ、と弾けた。

     ※     ※     ※
 
 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
 赤く染まった構内に、駅名を告げる看板が映える。

 山手線・品川駅──

 それは、「始まり」にして「終わり」を告げる駅。
 見つからなかった少女の唇は、誰にも知られることなく山手線を一周して、そのまま『私』の一部となった。

     ※     ※     ※

「──あのヒトは死んでしまったの。わたしの目の前で。この場所で」
 周囲の奇異の視線など気にもとめず、女はウワゴトのように言う。
 誰かと話すワケではなく、誰かに告げるワケでもなく。
「……わたしは、あのヒトを助けるコトができなかった」
 喪服のような黒一色の服装に、暗く沈んだ表情。
 どちらかと言えば、美女の類に入るかもしれない。
 しかし、化粧もせず、やつれ果てた顔は、女の美貌を見事に損なわせていた。
 ギラギラと睨みつける、どこか狂的な瞳だけが、女の個性となっている。
 疲れたように
 憑かれたように
 女は淡々とコトバを呟く。
「あの日は、朝から雨だった。わたしたちは、シアワセの中に包まれていた。それは突然、失われた」
 結婚式は、一週間後に控えていた。
 祝福された、平凡だけど愛に満ちた日々。
 確かにつかんだ、未来への片道切符。
「……だけど、あのヒトは死んでしまった」
 結婚の前祝いだ──友人たちが開いてくれたパーティ。
 幸福感からだろう、大して強くもないクセに、あのヒトは勧められるがままに酒を飲んだ。
 気がつくと、泥酔寸前になっていたカレ。
 あまりの様子に、周囲は泊まっていけと勧めたが、あのヒトは帰ることを選んだ。
「わたしが帰ろうと言ったから。言わなければよかった」
 帰らなければ、未来は変わらずシアワセだったハズなのに。
 この駅に来なければ、あのヒトは今も笑っていたハズなのに。
 最終電車が来るよりも早く、わたしが気づくよりも早く、カレの姿はプラットホームから消えていた。
 転落というトビコミ。
「……わたしは、あのヒトを助けるコトができなかった」
 耳をつく急ブレーキ。
 硬いモノがぶつかって、肉が千切れるイヤな音。
 視界一面を染めた赤。
 唐突な出来事に、一瞬、ユメかと思った。
 悪いユメ。
「──あのヒトは、ココで死んだの」
 ゆっくりと持ち上がる指が、駅の片隅を指す。
「雨で足が滑ったのかもしれない。お酒に酔っていたコトも事実。そして、あのヒトを失ったのは現実だった」
 あの時、わたしが帰ろうなんて言わなければ。
 あの時、わたしがしっかりカレを見ていれば。
 後悔は尽きない。
「周囲の制止を振り切って、わたしも線路に飛び込んだわ──」
 薄暗い線路は、雨と血で濡れていた。
「何度も転びながら、愛しいあのヒトの名を叫びながら、わたしはカレであったモノに抱きついた」
 それは原形をとどめるモノではなく。
 けれど、暖かな肢体は、まだカレが生きていると錯覚させた。
 バラバラになったすべての欠片を集めれば、あのヒトは元通りになるかもしれない──
「……おかしいわよね。ええ、おかしくなっていたのよ、きっと」
 自虐するように、唇が歪む。
「わたしは、必死にカレであった欠片を捜したわ。
 ──あのヒトには、腕がなかった。
 遠くにまで千切れた腕を、私は必死で抱きしめた。
 ──あのヒトには、足がなかった。
 意外と近くに転がっていて、だけど膝から下は千切れていて。
 ──あのヒトには、顔がなかった。 
 拾い上げた顔は赤く染まっていて、どれだけ拭いても取れることはなかった」
 細切れになった肉体の欠片は無数にあった。
 耳や指はもちろんとして、身体からはみ出した内臓は、うっすらと湯気を上げていた。
「……気持ちが悪いとか恐ろしいとか、そんなコトはまったく思わなかった。
 だって、ほんの一瞬前まで、あのヒトは生きていて、笑いかけてくれて、愛してくれていたのだから。
 どんな姿になったとしても、カレはカレじゃない。
 何も変わらない。
 変わってなんかいない。
 わたしが愛した、愛しいあのヒト──」
 鬼気迫る女の姿に、周囲の人々は無関心を装って立ち去っていく。
 女は自分の身体を抱きしめ、慈しむように優しく微笑む。
 あのヒトとの思い出をなぞりながら。
「けれど──」
 女の表情が一変した。
 瞳が、さらなる狂気に薄く光る。
「……見つからないの」
 どれだけ捜しても。
 いつまで捜しても。
「あのヒトの左手の薬指。私との結婚(みらい)を約束した指輪をつけた指──」
 すべてかき集めた。
 千切れた肉体を、すべて。
 なのに、左手の薬指だけが見つからない。

“──電車に轢かれた身体は、その一部が絶対に見つからない”

 囁かれる都市伝説。
 不確かな噂。 
「だから、あのヒトは死んじゃったのかもしれない。ううん、すべての欠片を集めたら、きっと死なずにすんだに決まってる」
 そんなハズはない。
 カレは即死だった。
 しかし、極度の状態で刷り込まれた狂気が、女に現実を見失わせている。
「……見つからない欠片は、一体どこにあるのかしら?」
 もしかしたら。
 いや、きっと。
「考えれば、すぐにわかったハズなのに」
 薄い光を放つ瞳が、大きく大きく見開かれる。
「──なくなったその指は、きっと今も、山手線を電車と一緒に回っているのよ」
 だから、女は毎日のように山手線を訪れて。
 毎日のようにこの駅で。
 ──あのヒトの帰りを待っている。
 自分との未来を約束した指輪をつけた指が帰ってくるのを。
「……なのに」
 ギロリとした瞳が、『私』を捕らえた。
 睨みつける狂った視線は、しかし『私』には恐ろしいとは感じなかった。
 むしろ、美しい。
 怒りと狂気に蝕まれた瞳は、本当に美しいと思う。

『──私は、それが、ホシイと思った』

 女が叫ぶ。
 『私』の身体を、腕を、指を見つめて、女は叫ぶ。
「……どうしてっ!  どうしてアナタの指に、あのヒトの指輪があるのよっ!!」
 狂気に顔を歪め、飛び掛らんばかりの女に、『私』は初めて意識を向けた。
 女の身体が、それだけで硬直した。
 本能が感じ取る。
 ──ヒトならぬモノの存在を。
 魂が嗅ぎわける。
 ──『私』という、異質のカタチ。
「……なるほど、この指にあるコレは、そういったシロモノだったのですね」
 薄く微笑みながら、怯える女に『私』はゆっくりと近づいた。
 片足を引きずるようにして、歩く。
 その動きは、まるで長さの違う足を無理矢理動かしているようだった。
 事実、この寄せ集めの身体は、左右の均等が取れていない。
 ぎこちなくて不安定で、どこか奇怪な動き──
 単純に、気持ち悪い。
 一歩、また一歩。
 『私』は女に近づいていく。
 見えない何かに押されるように、知らず女の身体が後ずさった。
 理解できない恐怖に魂は震え、それでも必死に女はコトバを口にした。
「……アナタ……なに?」
「──さあ? それは私にもよくわからない」
 本心から『私』は告げ、優しく微笑んでみせた。
 愛らしく無邪気で、そして残忍な笑み。
 魅力にあふれた、無垢な唇。
 ──『私』の手に入れた、お気に入りの“部品”だ。
 それが、さらに女の恐怖に拍車をかけた。
 無理もない。
 のっぺりとした、ヒトとしての意思の欠如した表情の中で、人間味にあふれた唇は、さぞ異様なコトだろう。
 仕方がない。
 『私』には、まだまだ欠けた“部品”が多いのだから。
 しかし、とりあえず一つの問題は解決した。
 たった今、『私』は見つけたのだから。
 自らの身体に相応しい“部品”。
 すなわち。
 ──狂気に満ちた、魅惑の瞳。
 歩み寄りながら、『私』は純粋な好意から女に説明した。
「……この指輪はね、気がつくともうすでにあったんですよ。この指と一緒に」
 よく見えるように、薬指にある指輪を持ち上げる。 
「なにしろ、私はまだ“生まれた”ばかりだったのでね。自分がナニモノなのかも、よく理解できていなかった。歩くことのできる足は今も欠損だらけで、腕はようやくカタチを成したばかり。なにより、思考する脳が完成していなかった」
 それはまるで、未完成のパズルのよう──
 夏だというのに長すぎるコートを羽織っているのは、そのせいだ。
 左右の狂った身体は、お世辞にも『完成品』とは呼べまい。
 長い髪は、意外に男性のモノかもしれない。それもわからない。
 顔につけられたサングラスは、まだカタチのない箇所を隠すためである。
「だからね、この指が誰のモノなのか、いつ私のモノになったのか、アナタに教えるコトはできません」
 朗らかに、言う。
 女は問う。
 狂った意識の中で、閃いた答えを必死に否定しながら。
「……“生まれた”って……どういうコトよ……?」
「文字通りの意味ですよ」
 昼夜を問わず、環状運転を繰り返す山手線。
 無限の円を描きながら、今も昔も電車は走る。
 循環する輪は、ひどく不可思議な意味合いを持った符号である。
 ウロボロスと呼ばれた蛇が、宇宙を意味するように。
 ……例えるなら、それは恋。
 ……例えるなら、それはイノチ。
 どこまでもどこまでも、途切れることのない無限の円。
 その循環は、ヒトならぬイノチの創造を意味していた。
 かき集められたパズルの欠片は、そうして新たな変貌を遂げる。
 『私』という異形。
「──だけど、まだ完成していない」
 足りない部品がある。
 足りない欠片がある。
 『私』は、それを求めている。
「……アナタ……なに?」
 絶望の中で問いかける女に、『私』は優しく微笑んだ。
 あのヒトの指輪をつけた指が、ゆっくりと顔にかけられたサングラスを外す。
 それが、答えだった。
 そこに、答えがあった。
 女は恐怖に息を飲み、次の瞬間、大きな悲鳴を上げてもがくように走り出した。
 ──プラットホームの先、大きく口を開いた線路へ向けて。
 そこに、電車はやって来た。
 閃光と轟音。
 鮮血と戦慄。
 喧騒が周囲を包み込む。
 女の血で染まった『私』の足許に、砕け散った窓ガラスの破片が散らばった。
 キラキラと鋭利な光を反射する表面に、無邪気に微笑む『私』の姿が映っていた。
 サングラスのない、マネキンのようにのっぺりとした顔。
 無邪気で愛らしい唇。
 けれど。
 ……そこには、あるべきモノがなかった。
 ただ、闇だけが広がっていた。
 赤黒い空洞が、静かに虚空を見つめ返す。
 ──吐き気を催す、不快で恐ろしい光景。
 眼球のないソレを、『私』はサングラスで覆い隠した。
 もっとも、それはすぐに必要がなくなるだろう。
 やがて、電車が走り出す。
 女のシタイを回収し、けれど絶対にそのすべてを見つけることはできず。
 そして、電車は走り出す。
 見つからない欠片──狂気に彩られた瞳を乗せて。
 山手線は、今日も明日も、無限の円を走り続ける。
 『私』は、ただ待っていればいい。
 自らの好みにあった“部品”を捜しながら。
 ……シタイは知っている。
 見つからない欠片の行き着く先を。
 ……シタイは知っている。
 死者だけが知る、山手線の終点を。

 ──ここは、「始まり」にして「終わり」を告げる駅。

 すべてのパズルが完成した時、そこに何が起こるのかなど、知るモノは誰もいない。

えす・ますたべの城 / 高嶺俊