胸の中に、小さな台風

台風が来ていた。
波は少しずつその様相を変え、いつもとは全く違った荒々しさを晒し出している。
ワタシは右腕にボードを抱えたまま、左手で煙草を吸っていた。

「そろそろ上がろうぜ。ヤバイってこれ」
お気に入りのキャメル。ターボライターで火をつけながら成瀬が言う。
ワタシは水平線を睨みつけたまま、短くなった煙草を揉み消した。

「乗ってくる。成瀬は先に上がってていいよ。後で部屋に行くから」
「ちょっと待てよ、マジでヤバイって。遭難とかしたらシャレになってな」
引きとめようとするその言葉を遮って、全力で海辺に走った。
「止めたら一生恨んでやるから」

台風19号 事故 洪水警報 撤退 限界 遭難 乗りたい

様々な単語が脳裏に流れては消えていく。
それでもボードと足首を固定した瞬間、全ての思考と恐怖感は途切れて消えた。
ゆっくりと沖に向かって泳いでいく。
霞がかった海を一人ぼっちで漕ぎ出す寂寥感。
瞳を染める仄暗い海の紺とグレー一色の空。
ワタシはその光景に、感情と感覚の全てを奪われていた。



「成瀬が引止めてんだと思ってたよ」
「俺じゃねーって。いい加減ヤバイと思って止めたんだぜ?」
「まあでも無事でよかったよ。絶対死んだと思ったもん俺」
「勝手に殺さないでよ。ちょっと揉まれてただけじゃん」

結局上がったのは2時間後。
ボトムターンで滑り落ちたワタシが荒波で揉まれ、思ったより長時間浮き上がれなかったのを
心配して飛び込んできた成瀬に引きずりあげられたカタチで終わった。
帰りが遅い事を心配して見に来てくれた友人たちは、呆気にとられた様子でそれを見守った。

「成瀬の海バカは周知の事実だけどさ」
「そうそう、絶対乗ってるのは成瀬だと思ってたもん」
「俺よりコイツのが海バカだって。海バカっていうか単なるバカ」
「ひっど!」

紫煙の舞う成瀬の部屋は、いつも誰かの匂いがする。
こうやっていつも誰かが来て、ビールを飲みながら他愛の無い話をする。
それは部屋の主である成瀬が海に出てる間も変わらない、日常の出来事。

みんなそろそろ眠くなってきたようで、ひとり、またひとりと横になり始める。
朝イチで解散して、また夕方になると集まり始める。それがいつものパターンだった。
ワタシは寝ている人を起こさないように、部屋中に転がるビールの空き缶を片付け始めた。
少しずつ静かになる部屋に、申し訳程度に流されていたカーディガンズの声が響き始める。
Couldn't Care Less. ワタシはこの歌が大好きだった。
全てを片付け終えて顔を上げると、入り口で大きなゴミ袋を持って立っている成瀬と目が合った。

「オマエも泊まってく?」
「ううん、帰る」
「絶対泊まってかないのってオマエだけだよな」
「まあね」
「そんなにあの部屋がいいわけ?」
「そういうワケじゃないけど」

ワタシと成瀬は、別に付き合ってるワケじゃない。
いつも一緒に居るけど、それぞれが違う方向を向いてる。
海とボード、そして音楽だけがワタシ達を繋いでいる。
それでも泊まっていく?と聞くのは、成瀬なりの優しさなんだろう。
此処がいつも誰かの匂いに包まれるように、ワタシの部屋も常に誰かの匂いに包まれているから。

「おまえさ」
「うん?」
「もうやめろよな」
「成瀬には関係ないよ」
「そうだけど」

逡巡を断ち切るように、成瀬はゴミ袋を抱えて外に出る。
ワタシはいつの間にか最後の1本になった煙草にゆっくり火をつけた。
開け放した窓から、台風独特の強く湿り気を帯びた風が舞い込む。
灰皿に煙草を置き窓際に立ったワタシは、その風を全身に受け止めた。

だって分からないんだよ。
深く深く肺の奥に吸い込んだ煙は、真っ白なはずなのに。



真っ暗な海、荒れ狂う波を見つめながら、ワタシはボードにワックスを塗っていた。
帰るフリして納戸に寄り、生乾きのスウェットを着てボードとバッグを持ち、再び海に来た。
何がそこまで自分を掻き立てるのかなんて分からない。
でも是を逃したら最後、何かが途方も無い方向へ変わってしまう気がした。

用意を整え、新しく買った煙草を開封し、1本取り出して火をつける。
暗闇の中では、吐き出す煙の色なんて分からない。
それがなぜだかもどかしくて、そのまま左手で揉み消した。

瞬間、掴まれた肩。
驚いて小さく悲鳴をあげる。
振り返った瞳に浮かび上がる、成瀬の姿。
「ボードが無かったから、まさかとは思ったけど」
苛立ちを押さえ低いトーンで喋る言葉と裏腹に、明らかに成瀬の顔は怒りに満ちていた。
ワタシはその怒りを全身で受け止めながら、どうしてバレたんだと自分の行動を責めた。

「オマエ、死にたいわけ?」
「まさか」
「どう考えても自殺行為だろ。やめろバカ」
「大丈夫、死んだりしない」
「みんなそう言うんだよ。さっきからおかしいぜオマエ」

台風が今、どういう状況なのかはわからない。
雨は降っていないけど風は強く、波は夕方よりも酷く荒れている。
その証拠に、泡立つ波の白さが肉眼でもはっきりと確認できた。
それでも不思議と自分が遭難するなんてことは考えられなかった。

「何をそんなに焦ってるわけ?夕方あれだけ心配させて、まだ足りねぇのかよ」
「自分でも分からない。だから答えを探すためにも、乗りたい」
「じゃあ俺も入る。無理だと思ったら容赦なく連れ戻すからな」
「余計な事しないで」
「自殺行為だって言ってんだろが」

成瀬の怒りもワタシの苛立ちも最高潮に達していた。
客観的に見て、おかしいのが自分だって事くらい分かってた。
それでもなぜか譲れない。
そんな自分が腹立たしくもあり、わかってくれない成瀬に苛立った。

凪いだ波に、用なんて無い。

成瀬が諦めたようにキャメルに火をつけたのを見計らい、ボードを抱えて波打ち際まで歩いた。
無理やり引き止められたらボードでぶん殴ってでも出てやる。
そう決意したにも関わらず、成瀬は後ろをゆっくりついてくるだけで、もう引き止めたりしなかった。

「台風、早くおさまるといいな」
波打ち際、ポツリとそう呟いた成瀬は、ワタシの肩を軽く押した。
それだけで伝わっている事が理解できる、なんて単純なエール。

水平線は暗闇に溶け、空と海の切れ目はない。
目前に広がるのは、ただただ真っ暗な世界。
ゆっくりとその中に身を浸していくと、海は粟立つ全てでワタシを迎え入れた。
全身を包み込むザラリとした感触。足先に触れる砂の感触。
全てを愛おしむ様にゆっくりとボードに乗ると、ワタシは1人、荒れ狂う真っ暗な海へ漕ぎ出した。

07 / NANA