空に浮かんでいた

ゴポゴポ、
ゴポゴポ。
おかしいな。
ここはどこだっただろう。
何で僕は溺れているんだろう。
溺れている?僕は泳げるはずなのに。
体から、服の隙間から、空気が抜けていく。
ゴポゴポ、
ゴポゴポ。
最後の小さな気泡があわてて遠ざかっていくのが見える。
くるくると、足早に、光の方へ。
待ってくれ、と言いたかったけど僕は沈んでいく。
泡とは対照に、とてもゆっくりと。
心地は、別に悪くない。
そして目が覚めた。
熱帯魚の水槽の音なんかで起きるのは初めての経験だけど、
言いえも知れない不快感だ。

「何時…」

外は未だほの暗かった。
でもベッド際においてあるデジタル時計の数字を読むと、
もうすぐランニングに出なければいけない時間のようだ。
はっとして起き上がり、ふうと息をつく。
またこの格好で寝てしまったらしい。
徐々によみがえってくる記憶は、辿ってもしょうがないのでふたをする。
その場で軽くストレッチをすると、そのまま静かに家を出て、
僕の一日は始まった。
空が太陽を迎えている。
雛鳥が母親を待って鳴いている。
僕は色々なものの朝をゆっくりと眺め回しながら、
規則的に息を切り、汗だくの体で風呂に直帰した。
シャワーにさらされてだんだんと冴えてくる頭を振り乱し、
今朝これまでの煩雑なできごとを全てシャットアウトすると、
少しだけ気分が和らぐ。





このところ、学校でも家でもすることが変わらない。
ひたすら寝て、食べて、練習をする繰り返しだ。
この流れが途切れることが滅多にないことに、最近気が付いた。
思い返すと、こんな毎日がどれだけ続いているんだろう。
週単位で数えると両手の指じゃ足りないくらいの数だってことは確かだ。
もうこんなに経ったのか。
そう思うと自然に肩が落ちる。
過ごした日数だけ進歩していると信じたい。
信じるだけで超えることができたらどんなにいいだろう。
僕の足はいつもあのバーに引き寄せられるんだ。
カラァン。晴れたグラウンドの隅に響く音。
僕が響かせている音。
頭がずきずきとする。

「先生」
「なんだ、どうした」
「頭が痛いので保健室に」
「ああ、わかった 保健委員」
「大丈夫です 1人で、行けます」

厄介払いをするように言葉を遮られて、
気分のいい人はよほどの変わり者だ。
残念ながら僕は根っからの凡人なので、
少なからずかちんとする。
いや、凡人だとかそんなことは関係ないのかもしれない。
今の僕には決定的に、余裕が無い。

「鯨井くん」
「あれ?」

低いトーンのおかしな返事になってしまった。
もっとおかしいのは彼女だ。

「保健委員?別に、大丈夫だよ 先生にちゃんと断ったは」
「そうなんだけど、無理やりついてきちゃった」
「ああそう」
「意外と無反応だね」
「…ちょっと、話しかけないでほしい」
「え?仮病じゃなかったの?」

何がしたいんだろう。
何が言いたいんだろう。
あいにく仮病じゃない僕の頭がずきずきとする。

「鯨井くんて保健室で休んでた日も平気で部活出てるじゃない?
 だから仮病だろうってみんなが言うからさ、何してるのかなーって興味が」
「うるさい」
「…ごめんなさい」

どっと押し寄せてくる自己嫌悪の波。
波紋を広げるように痛む頭。
もう何もかも、少し黙ってくれ。
言葉か何かが出かけて押し戻る。
繰り返しているうちに嘔吐感に変わってくる。
出来る限りの速さでトイレに駆け込んで、もう思い出せない朝食が外側へ開放されていく。
目をつぶって手探りでレバーを引き、音だけ確認して外へ出た。
少しだけ滲む視界の向こうから、彼女が走りよってくる。

「鯨井くん大丈夫?えっまさか吐いてた?
 ごめんあたしそんなに気分悪いだなんて思わなくて、大丈夫?」

こうも露骨だと、彼女の謝罪は記者会見並みに白々しい。
無言で応えるとさらに申し訳なさそうな顔をして押し黙った。
はっきり言っていいのだろうか。

「君みたいに面倒くさい人は初めてだ
 なんでもいいからもう僕にかまわないでくれ」

やっと僕は保健室に向かう道のりを取り戻すことができた。
部活まであと4時間ある。
回復には十分だろう。

「鯨井くん」

うちの学校の保険医が話のわかる人でよかった。
もはや窓際のベッドは僕の指定席と化している。
毎年この時期になると運動部員で埋まるとか埋まらないとか。

「鯨井くん」

どうやら今年は不作らしく、頻繁に通いつめているのは僕だけのようだ。
おかげでいつでもあの日当たりのいいベッドが僕を迎えてくれる。

「鯨井くんごめんね でもあたし、鯨井くんに興味が」

わざわざ大きな音を立ててドアを閉めた僕を、
克己先生は不思議そうな顔で眺めている。
そしていつもみたいに、哀れむように微笑んだ。
僕はそんな克己先生の笑顔が嫌いじゃない。

「どうぞ、鯨井くん」





「位置につけ」

ピークを過ぎた気温が溶けて、体にまとわりつくように熱い。
マットの向こうに陽炎が見える。
時間が過ぎると同時に、季節は移っていくらしい。

「鯨井、アップは」
「終わりました」
「おい武田、バーを鯨井のところまで上げてくれ」

今から考えることは、マットの向こうの陽炎だけ。
あの向こうへ飛んでいけばいい。
それだけでいい。
これで最後だ。
何もかもこれで、最後だ。

「もう一回」
「はい」
「踏み切るタイミングが遅い
 それだから跳ぶときに足がもつれるだろう
 ジャンプはいい 踏み切り気持ち早めを覚えておけ」

何回も言わせるな、とため息と悪態をつく顧問の気持ちも、
痛いほど分かる。いや、身に染みる。
僕にとっても今が瀬戸際なんだ。
推薦にも申請やら公式の記録やら、細々とした手続きが多い。
それをするかしないか決まるのが今だ。
しないとなると、僕には浪人以外に道がない。
浪人以外、ではない。
僕は推薦以外に選ぶ道はない。

「よう」
「どうも」

敷地と公道を遮るフェンスのそばに、同級生が立っていた。
不運なことにスタートラインが近い。
まっすぐと睨むように、彼は僕を見ている。
僕と彼は知り合いだ。
クラスも名前も覚えていないけど彼は陸上部員だった。
受験を理由に引退した、いわゆる受験組だ。

「調子どう?」
「まあまあだね」
「顔色悪いけど」
「いつものこと 低血圧なんだ」

戒律の厳しい陸上部をやめた彼は、
部活をしていたときに比べて少し派手になったようだった。
髪を染め、ピアスを開け、制服の着こなし方がだらしなくなっている。
ただ少しやつれたようでもあった。

「お前さあ」

何が気に入らないのか知らないが、
彼の敵意は感じている。
今にも噛みかけのガムを飛ばしてきそうだ。

「どうしてそんなに必死で跳ぶわけ?」
「君はどうして生きてるの?」
「あ?」

理由なんてなくなってしまった。
僕が持つものなんて、もはや衝動と使命感と見栄だけだ。

「跳ぶしかないんだよ」

さよならも言わずにフェンスを遠ざかり、
スタートラインに立った。
陽炎はもう校舎の影に消えている。
甲高いホイッスルの合図で、僕はさっきと同じように、
落ち着いて助走を付けた。





また夢を見た。
また青い夢だった。
どこまでも深くなる空の中で僕が泳いでいる夢。
瞬間に見たような空はとても懐かしく、
目が覚めて僕は泣いた。
なくなった理由が思い出せそうで、しばらく夢を追っていたのに、
目覚ましのアラームが僕を切り離し、
ランニングへと駆り出した。
今日こそは、飛べるといい。

RO-MAN / にわとり