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水は揺らぐ

 揺らぐ水に身を任せ、どこまでもどこまでも手を伸ばし、力の限り水を掻く。
 疲れ切り、指先一つ動かせなくなっても、ただひたすらに水を求めた。
 皮膚を通して感じる水の感触。
 滑らかに全身を包み込む抱擁。
 ……ああ、身体が水に蕩けていく。
 ……ああ、意識が水に蕩けていく。
 そして、私のすべては水に溶ける。
 ――不自由な水の中でこそ感じる自由。
 ――限られた水の中でこそ感じる解放。
 それは、たまらなく蟲惑に満ちた感覚。
 私たち生命が、水から産まれたという進化の記憶が、それを感じさせるのかもしれない。
 私には、それが人一倍強く残されているのだろう。
 だから、私は水を求める。
 泳ぐことで、曖昧な現実を断ち切ることができると信じて。
 地上で感じる不安、畏怖、漠然とした思慕、憧れ……。
 泳ぐことで、すべてを忘れ去ることができる。
 水の中にいると、心が安らぐ。
 水に包まれている時だけ、落ち着いた。
 あらゆる感覚が、水の中では曖昧な幻想に変わる。
 ……ああ、身体が水に蕩けていく。
 ……ああ、意識が水に蕩けていく。
 それが、私にはたまらなく心地よかった。
 ――不自由な水の中でこそ感じる自由。
 ――限られた水の中でこそ感じる解放。 
 そこは、私だけに許された世界。
 絶対なる孤独の中で、水と対話する喜び。
 恍惚の中で鼓動する、高鳴る胸の存在感。
 この瞬間、私は確かな『自分』という生命を実感するのだ。
 けれど、同時に理解している。
 どれだけ甘美で魅惑に満ちていても、そこは所詮、異界にすぎない。
 どれだけ私を抱き締め受け入れても、それはただの錯覚にすぎない。
 それでもよかった。
 水に触れることで、水と交わることで、私は世界から隔離される。
 そこは、私だけに与えられた絶対なる空間。
 ……そう。
 私に取って、泳ぐという行為に、それ以外の他意はなかった。
 泳ぐことで、曖昧な現実から、ほんの一瞬だけ逃避できる。
 心地よいから。
 安らげるから。
 ……それだけを求めて、何が悪いというのだろう。
 しかし、私の想いとは裏腹に、現実は水の中にまで押し寄せてきた。
 ――大会。
 ――記録。
 私は、ただ泳ぎたかっただけ。
 揺らぐ水を、ただ感じていたかっただけ。
 ……それだけを求めて、何が悪いというのだろう。
 疑問と苛立ちは、けれど水に入るという蟲惑には勝てなかった。
 ――無責任すぎる周囲の期待。
 ――浴びせられる賛美と嫉妬。
 結果、私は大切な世界を失った。
 過酷なまでの練習に、身体はとっくに悲鳴を上げていた。
 限界を超えた肉体は、ある時を境に、いとも容易く崩壊した。
 耳に届く応援と歓声が、瞬時に悲鳴へと変わる。
 全身を走り抜ける激痛。
 ゆっくり沈み行く身体。
 ……なのに、不思議。
 水という異界が、これほど身近に感じられるとは。
 身体は動くことを否定し、意識は鋭敏に広がっていく。
 この瞬間、私は水に魅せられた、本当の理由を知った。
 異界に抱かれる、ということは。
 死への道のりを歩むということ。
 ……生命の過去への回帰。
 ……生命の初源への逆転。
 そして、今、私は完全に揺らぐ水と一つになろうとしている。
 ――この時ほど、強く水を求めたことはない。
 ――この時ほど、強く水を愛したことはない。 
 水に抱かれ水に蕩け、私の意識は穏やかに微睡んだ。

     ※     ※     ※
 
 病室から見上げる空は高く深く、それはどこか揺らぐ水のよう。
 けれど、それはまったくの別物にすぎない。
 足首に巻かれた包帯の白さが、雪の白さに似ているように。
 ……まったくの別物にすぎない。
 二度と泳ぐことができないと、医師から告げられてから数日。
 私は、気がつくと空を見つめている。
 水を連想させる空を。
 果てなく吸い込まれそうな、空の深さ。
 揺らぐ雲の細波。
 それは、あの瞬間を連想させた。
 ――皮膚を通して感じる水の感触。
 ――滑らかに全身を包み込む抱擁。
 明確なまでに思い出す。
 恍惚と解放、水に蕩け、完全に一つとなる感覚。
 ……生命の過去への回帰。
 ……生命の初源への逆転。
 なのに、私はそれを決して取り戻すことができない。
(――還りたい)
 あの水の世界に。
(――還りたい)
 あの水の抱擁を忘れることができない。
 泳ぐことだけが、私のすべてであったのに。
 水の中にいると、心が安らぐ。
 水に包まれている時だけ、落ち着いた。
 ただ、それだけで満足していたというのに。
 どれだけ願っても、時間は過去へと戻らない。
 どこまでも、夢は幻のまま。
 だからこそ、私は願わずにはいられない。
 目覚めていても眠っていても、想いは揺らぐ水に囚われたまま。
 ……ひたすらに、水を求める。 
 それは、決して叶うことのない願い。
 私は、初めて声を上げて泣いた。


     ※     ※     ※


 乳白色の靄に包まれた世界。
 見上げる空は朧げに霞み、見下ろす足許は儚く滲む。
 ぼんやりと感じる、水の感触。
 身体を意識を、幻想の水が優しく抱き締める。
 揺らぐ水に、『私』という波紋が広がっていく。
 ……ああ、身体が水に蕩けていく。
 ……ああ、意識が水に蕩けていく。
 それが、たまらなく心地よかった。 
 それが、ただの幻に過ぎなくとも。
 水を求め、水と対話し、ひたすらに水と泳ぐ。
 時間は流れ、いつしか朝が訪れても、私は水と離れることを拒み続ける。
 目覚めない夢の中、どこまでもどこまでも水を掻く。
(――そろそろ、こちらに戻って来てはどうだい?) 
 夢の中で、そっと差し出される手。
 暖かな声の優しい響きに、私は思わず顔を上げる。
 乳白色の世界に、差し込む小さな光の手が眩しい。
 心が揺らぐ。
 水が揺らぐ。
(――そろそろ、こちらに戻って来てはどうだい?)
 けれど、私は囁く声に背を向けて、さらなる深い水の底へと身を躍らせた。
 水と完全に一つになる感覚。
 恍惚と蟲惑に満ちた解放感。
 その感触に酔いしれながらも、私の目は揺らぐ水の向こうを見つめていた。
 ……わかってる。
 ……わかっているんだ、私にも。
 この場所が、私が作り出した幻であることくらい。
 仮初の解放、都合のよい逃避、それが何を意味するのかくらい。
 ――充分すぎるほど、理解している。
 滑らかな水が、私を優しく包み込む。
 ……大丈夫。
 ……大丈夫だから。
 私だって、いつまでもこのままでいられると信じているほど子供じゃない。
 いつか私もここを出て、みんなの待つ地上へと戻るから。
 苦悩と歓喜に満ちた、あの場所へ。
 水から抜け出し、新たな進化を遂げるために。
 だけど、今はまだ。
 ――今だけは。
 乳白色の空の下。
 何も考えず、何も悩まず、母なる水に抱かれた胎児のように。
 揺らぐ水に、すべてを委ねて眠りたい……。

えす・ますたべの城 / 高嶺 俊