RUN

 同じクラスの安西元治の陸上部入りを戸田美晴が耳にしたのは放課後になってからだった。
 科学部に所属していたはずの安西が、中学二年の二学期になってから陸上部に入るというのは意外な話ではあったけれど、美晴には大して興味のあることではなかったから、素通りしてテニスコートへと急いだ。

 一年生と一緒にネット張りをしていると、しばらくして陸上部の部員たちがランニングして来るのが見えた。校庭のフェンス沿いを走る陸上部は、テニスコートのそばも大回りで通って行くのだ。
 その最後尾に安西がいた。
 長い前髪に顔を半分隠すようにして下を向いたまま、女子テニス部のそばを通り過ぎていく。
 (本当に陸上部に入ったんだ)
 そう思いながら、ただなんとなく見ているうちに、顔を上げた安西と目が合ってしまった。
 ぎろりと睨むようなその目に驚いて、美晴はイヤな気持ちになった。
 (相変わらず感じ悪い人)

 安西は教師に対して常に反抗的な態度を取る生徒だ。口に届くほど伸ばした前髪を注意される度に、上目遣いで教師を見上げ、「どうしてだめなんですか」と理由を求める。
 そのやりとりがあまりにも頻繁なので、クラスの何人もがうんざりしていた。
 (さっさと切ればいいのに)と、美晴もそう思っていた。

 (それに比べると、やっぱり坂巻君は爽やかでかっこいい)

 美晴が好きなのは、同じ軟式テニス部二年の坂巻広大だ。きりっとした短い髪に白いウエアがよく似合う。三年生が引退して新しい部長になった広大はますます頼もしくなり、下級生からの人気も上がっているようだ。
 二人は同じ小学校の出身で、一年生の時には同じクラスだった。そんな関係で以前から親しい。
 思い切って自分の方から告白しようかするまいか、それが目下、美晴の最大の関心事なのだ。
 何気なく男子のコートを見ると、広大が気づいて笑いかけてきた。美晴も微笑み返す。
 その視線のずっと遠くを、陸上部が横切っていった。


「ねぇ、美晴は知ってた?」
 遅れてきた沢口邦子が、ラケットを肩に担ぐようにして近づいて小声で言った。
「なにを?」
「あいつが陸上部に入ったのは、テニスをしてる美晴をずっと見ていられるからなんだってよ」
「あいつって?」
「安西元治。さっき部室の前で聞いちゃったんだ」
「冗談でしょ」
 (安西君があたしを? もしそうならテニス部に入ればいいじゃない)
「本当だよ。男子の間じゃ結構噂になってるみたいよ。
 ムッツリスケベってやつだよね、安西は。なーに考えてんだかわかんないんだから、気をつけなよ、美晴」
 こんなこと耳に入れちゃってごめんねというようなトーンの邦子だったけれど、きっともう、他の部員たちの耳にだって入れてしまっているに違いない。
 (あの安西君が、あたしを・・・?)

 そうこうしている内に、陸上部がぐるりと校庭を回ってまたテニスコートのそばまで来た。
 いつの間にか安西が一番前を走っている。美晴はコートの中で邦子とラリーをする。腰を落としてラケットを構える。白の短いスコートが風にそよぐ。
 (見られている?)
 そう思ったら急にどきどきした。

---あいつが陸上部に入ったのは、テニスをしてる美晴をずっと見ていられるからなんだってよ---

 集団の足音が背後を通り過ぎ、邦子の向こう側を通って男子コートの方へ去る。
 美晴はネットにひっかけたボールを拾いながら安西を見た。やはりトップを走っている。
 (へぇー、案外走るの得意だったんだ・・・)

---あいつが陸上部に入ったのは、テニスをしてる美晴をずっと見ていられるからなんだってよ---

 すぐに陸上部は美晴の視界から外れたけれど、遠くからもずっと安西に見られているような気がして、美晴はいつも以上に自分のフォームが気になった。
 そろそろサッカーのゴールの向こうを通り過ぎる頃だろうか。それから朝礼台の向こうを通り、校庭の反対側の端にある野球のネット裏を走り・・・。
 そうして再び足音が近づいて、陸上部がテニスコートの脇にさしかかった。
 安西はやはりトップを走っていた。

 その時だ。
 広大の打ったスマッシュが大きく反れてダイレクトに安西の左肩を打った。
「わるい!」
 広大が声をかけると、安西は何も言わずにただ、なんでもないよという風に手を上げて足を止めずに走っていく。
 軟式ボールだし大して痛くないのは分かっているけれど、なぜだかそのポーズが美晴にはかっこよく見えてしまった。
 (やだ、あたし、どうしたんだろ)


「今日の美晴、めためただったじゃん。また坂巻広大に見とれてたん?」
 部室で着替えているときに邦子に言われた。
 (そういえば今日は坂巻君を気にしている暇がなかったな・・・)
「もうさ、思い切って告ってみたら?」
「えー、うそー、無理だよー」
「無理じゃないってば。坂巻君だって、美晴に気があるんだから、絶対」
「でも、告って振られたら格好悪いじゃん」
 口ではそう言いながらも (やっぱりそうかな?)と、ついニタニタしてしまい、美晴は上の空で部室を出た。

 出たとたんに、どんっと誰かにぶつかった。
「あ、ごめん!・・・なさい・・・」
 相手はちらっと美晴たちを見ただけでスタスタと行ってしまう。
 一瞬だけど、鋭い眼光は安西だった。
「なにあれ、感じわる。美晴だってわかってて、わざとぶつかったんじゃないの?」
「まさか・・・」
 (背、あんなに高かったんだ・・・)
 腕と背中に触れた安西の体温を思い出して、なんだかまたどきどきしてくる。

「なになに、どうしたの?」
「あ、坂巻君、今ね、美晴に・・・」
「だめだめ、なんでもないよ!」
 余計なことを言い出しそうな邦子の腕を美晴は引っ張った。
「ねぇ、なんだよ、気になるなぁ」
「なんでもないって」
 一緒になってくっついてくる広大を少し疎ましく思いながら美晴は校門へ向かう。

 安西はまだ、校門横の体育館の入り口前の石段に座っていた。他の部の誰かを待っているのかも知れない。
「ねぇねぇ、教えてくれよ」
「なによ、坂巻くん、そんなに美晴のことが気になるの?」
「別に、そういうわけじゃないけどさぁ」
 うるさく言い合っている邦子と広大と一緒に、美晴は校門を出た。
 それでも背中に安西の視線が貼り付いている気がする。
 絶対に安西はこっちを見ている。自分を見ているんだ。ひょっとしたら広大とのことを妬いているかもしれない。
 そう思ったら背中がぞくぞくした。

 次の日の部活の時も、次の部活の時も、そのうち教室でも、美晴は安西が気になるようになってしまった。
 他の男子とは違ってどこか大人びた安西に憧れている女子がいるということさえも、なんだか誇らしい。
 目が合うたびにそわそわした。
 告白されたらどうしよう、告白してくれればいいのに、そう思ったりするけれど、安西の眼つきは相変わらず怖い。
 怖いけれど、自分を好きなのかと思うと胸が高鳴ってしまうのだ。
 (こんなのあたし、絶対におかしい)

 けれども、安西はそれ以上なんの行動もおこさなかった。
 (あたしを見ていたくて陸上部に入ったなんて、やっぱり嘘なのかもしれない)
 ただ、本当に心から走ることが好きだから走っているのではないかと、だんだんそう思えてきた。
 それとも、走っている内に走ることに目覚めたんだろうか。
 健全な精神は健全な肉体に宿る、おまえら余計なこと考えてる暇あったら校庭でも走ってこい! という担任の口癖もまざまざと思い出される。

 気がつけば、むしろ美晴の方が安西を目で追っているのだった。
 (もっと見て。あたしを、あたしだけを見て。強く強く強く・・・)
 そう念じている。

 (あたし、どうしちゃったんだろ・・・)
 

「最近の戸田さん、おかしいよね。部活に身が入ってないみたいだし、なにか心配事でもある? ぼくでよかったら話してくれないかな」
 ある日とうとう、広大にそう言われた。部長としての言葉だったけれど、半分は違ったかもしれない。
「ねぇ、よかったら気分転換に、その・・・今度の日曜日、映画でも観に行かない?」
 そう誘ってくれたのだ。
 ほんの少し前なら、小躍りするほど嬉しい言葉だっただろう。なのに美晴は、「ごめんなさい!」と言うばかりでなく、「テニス部、辞めます」とまで言ってしまった。 


 美晴は陸上部に入った。
 安西は美晴を見て、「走れるのかよ」と言っただけだった。
 (走れるよ)
 美晴は走った。
 安西の背中を追うように走った。
 テニスコートのそばを通るときには少し気まずかったけれど、二周目にはもうそれどころではなかった。

 心臓がばくばくいって、横腹も痛くなった。それでも必死に走った。他の部員たちとの距離はどんどんと空いたけれど、止まらずに走った。
 体の中のもやもやした何かが出口を求めていた。
 安西を求めていた。
 安西の背中を見ているだけでぞくぞくした。
 近づきたくて走った。触れたくて走った。

 (おかしい、あたしはおかしい)

 自分も忘れられるんだろうか。走ることに没頭すればこのもやもやを忘れられるんだろうか。
 健全な精神、健全な肉体・・・
 歯をくいしばって美晴は走った。 

(終)

桜ふる日を / sakurai