女友達

***プロローグ


遠い日の少女。
淀んだ川の流れ。
風に揺れる水面。
かすかに音を立てて弾ける…
少女の目は釘付けになり、手を伸ばしかけて…




***佐藤珠緒


「なぜ殺したんだ。」
狭い取調べ室で何度この言葉が発せられただろう。
俯いたままの真由美を睨みつけている、頭のてっぺんが薄くなりかけたベテラン刑事の声には、徐々に苛立ちが混じり始めていた。
「被害者の名前は佐藤珠緒。年齢は21。M大生。君と同じテニスサークルに所属して…」


大学に入学したばかりの頃、サークルのコンパで終電を逃してしまった真由美は珠緒のアパートに泊めてもらった。
まだキャンパスに馴染めず、何かを手探りで求めていた女二人が仲良くなるのに、一晩あれば十分だった。
肩にかかる髪の先が風に遊ばれるようにくるんくるんして、ゆでたまごみたいにつるつるの頬はうっすらと桃色に火照り、とびっきり大きな鳶色の瞳は常に潤んで涙を湛えて…美少女という言葉は珠緒のためだけに作られた言葉のようだった。
だから、真由美が彼女のアパートに初めて足を踏み入れたとき、その外見と不釣合いな生き物が蠢いている水槽に真っ先に目がいったのも当然だっただろう。


「…死因は絞殺。犯行時刻の少し前に君が彼女の部屋に入るところは何人かに見られているし、被害者の爪の間からは君のものと思われる皮膚の一部も見つ…」


絞殺。首。白くて細い珠緒の首。誰もがため息をつく容姿を持っていた珠緒。
彼女が望めばどんなものも手に入れることができそうだった。
実際に彼女は標的を見つけることさえできれば、何でも自分のものにすることができた。
珠緒は一人では何もできなかった。いつも真由美の横に寄り添い、真由美をじっと見つめていた。
その外見の美しさに寄ってくる下心丸出しの男たちはたくさんいたが、普通にしていてもどこか媚びた感じのする彼女には他に友達はいなかった。
彼女の世界は真由美がただ一つですべてだった。
真由美は、彼女と並んでいる自分に向けられる好奇の視線を時折不快に感じることはあったが、珠緒を突き放すことはしなかった。それは…


「…君の腕にある引っかき傷は、被害者の首を絞めたときにできたものじゃないのか?」
言われて真由美は自分の左腕に視線を落とした。こんなところに傷ができていたのも知らなかった。もうかさぶたになっていた。
「恋人を盗られた腹いせに殺ったんだろう?」
え?そうなんだろう?と刑事の顔が近づく。
珠緒が真由美から奪ったのは恋人だけではないことを、この刑事は知らない。
真由美が少しでも弱いところを見せると、次の瞬間から、それは珠緒のものになった。
真由美は最初、それに気づかなかった。恋人と上手くいっていないことを珠緒に話すまで、気づかなかった。


「わたし、真由美の持ってるモノがいい。真由美のモノなら何でも安心できる。」
「真由美は友達よ。心から信頼している、たった一人の友達。だから、真由美の選んだモノが、真由美の持っているモノが、何よりも安心できるの。」
「知ってるでしょう?わたし、一人じゃ何も見つけられない。いつでも真由美が前にいてくれないと、わたし、何もできない。」


珠緒が“オタマ”と呼ばれているのは、その名前だけのせいではないのかもしれない。珠緒は真由美を友達だと言った。
(友達はみんな食べられる。)
真由美を覗き込む珠緒の顔は、おたまじゃくしに見えた。おたまじゃくしが共食いすることを、真由美は知っていた。




***おたまじゃくし


遠い日の少女。
淀んだ川の流れ。
風に揺れる水面。
かすかに音を立てて弾ける…
少女の目は釘付けになり、手を伸ばしかけて…


音を立てて弾けていたのはおたまじゃくしだった。
少女が手を伸ばしかけてやめたのは、何かに群がるおたまじゃくしを見てしまったから。
中心にいたのは、しっぽがぼろぼろになったおたまじゃくし。
仲間にあちこちつつかれて、肉をむしり取られ、ぐるぐる巻いてあったはずの内臓がはみ出して、今にもちぎれそうになっている。
試しに元気そうなやつを一匹すくって、しっぽの先を少しちぎってから淀みに戻してみた。
バランスが崩れて上手に泳ぐことができなくなったおたまじゃくしのところに、徐々に仲間が集まってくる。
それは助けるためではなかった。もはや仲間ではなかった。
少女のおたまじゃくしは、他のおたまじゃくしにとって最も安全で確実なエサに変わってしまったのだった。
学校では、友だちは困ったとき助け合うものだと教わった。
しかし、困っている友だちを食い物にする生き物もいるのだということに、少女は奇妙な感動を覚えた。
少女は夢中になってしっぽをちぎり続けた。




***水槽


「刑事さん。」
ようやく真由美が口を開いた。ベテラン刑事は身を乗り出した。
「やっと全部話す気になったか。」
だが、次に出た真由美の言葉は刑事の期待はずれのものだった。
「珠緒のアパートの水槽に、何かいませんでしたか?」
「水槽?…生き物は何も入っていなかったみたいだが。」
「何もですか?」
「しつこいな。何もいなかったよ。」
(やっぱり共食いしたのね。でも、そうすると…)
「最後の一匹はどうなったのかしら。」
考え込んでしまった真由美を見て、刑事は肩をすくめた。仕方なく、そのまま取調室を出ていこうとして、ああ、忘れていたと振り向いた。
「…被害者の小指を切ったのももちろん君だろうね?何でそんなことをした?何か意味があったのか?切った小指の先はどこに捨てた?」
顔を上げた真由美と刑事の目が合った。
その瞳の色から、真由美がもう何もしゃべるつもりのないことを見て取ると、刑事は再び肩をすくめて今度こそ出ていった。




***玉木真由美


「どうですか?あの女、何か話しましたか?」
若い刑事がコーヒーを差し出した。
取調べを終えたばかりの刑事は、どうもこの男はへらへらしていていかんと思いながらも素直にカップを受け取った。
「いや、何もしゃべらん。こんなに簡単な事件なのに、俺にはイマイチわからんね。あの女が珠緒のことを本当はどう思っていたのか。小指を切ったこととか…」
ズルズルと不味そうにコーヒーを啜る音が部屋中に響く。
「女の友情とか、僕ら男にはわかりませんよ。」
「友情ねえ。佐藤珠緒に玉木真由美か…二人とも“オタマ”なんて呼ばれてたらしいな。もっとも、玉木真由美がそう呼ばれていたのは被害者に出会うまでだったようだが。真由美なんて名前、他にもっとかわいい愛称がいくらでもあるだろうに。」
「僕の田舎じゃ、子どもの頃おたまじゃくしのことを“オタマ”って呼んでましたよ。やあ。懐かしいなあ。」
“オタマ”に反応した若い刑事が無邪気にはしゃいだ。
ふん、とベテラン刑事は鼻を鳴らしただけでその後は黙ってしまった。




***エピローグ


水槽にいたおたまじゃくしのしっぽは、みんな真由美がちぎっておいた。
最後の一匹がいなければいけないのだ。最後の一匹が…


刑事たちの捜査で、おたまじゃくしも珠緒の小指も見つかることはなかった。

eros / 颯木