高尾

 11500円。
 彼の財布の中には11500円分の切符が入っている。
 5回分の利用欄にはすでに3つのスタンプが押されていた。立花。彦根。そして湯河原。
 彼は今朝、湯河原を出た。そして何とはなしに思い浮かんだ「東京」という言葉に任せて東京駅へ向かった。目的も何もない気ままな旅だった。仮にも進学校の高校3年生とは思えないような行動だった。けれども彼はそれを不自然だとは思っていなかった。
 昼頃興味本位で降り立った「東京」は、たくさんの色と矢印が交差する駅だった。
 彼はオレンジ色と矢印に惹かれるようにして、「高尾行き」という列車に乗った。

 どこで降りるのかなど決めていなかった。
 ただ窓から外を眺め、景色が変遷していくのを見つめた。
 ビルや小売店が立ち並ぶ景色はやがて住宅街に変わり、そして、まるで田舎道を走っているのかと錯覚させられるような緑の多い景色に遷っていった。


 この景色はどこまで続くのだろう。


 彼はこの景色が途中でまたビル群に戻るようならばそこで下車して反対方向に戻ろうと決めた。しかし、景色は一層緑を深めるばかりであって、情緒を感じさせるものが彼の目には映るばかりであった。


 これも「東京」なのか


 あっという間に列車は終着地に着いた。

  「高尾」

 よくよく見ればハイキングのような格好をした老人や親子連れが何人かいた。彼もその波に乗って降りる。改札を通ってまずは自動販売機で缶コーヒーを買った。そろそろお金を下ろさなくちゃな、と思った。

 少し町並みを歩いた。
 「蕎麦」の文字を並べる店が多かった。同時に土産物屋があることに、ここは観光地なのだ、と彼は悟った。
 チラリチラリと蕎麦屋を見ては安い物がある店を選んで入る。
 店の主らしい中年の女がやってきて「ご注文お決まりですか?」と笑顔で話しかけた。
 「ええと、この」彼がその店で一番安い商品を注文しようとすると女は「とろろ蕎麦だったらうちが一番ですからね」と、どこの店主でも言いそうな言葉で遮った。とろろ蕎麦は彼が注文しようとしていた「蕎麦」より若干高かったが、彼は女の言葉に従って「とろろ蕎麦」を注文した。店においてあるパンフレットを見て、「高尾というのはとろろ蕎麦が有名な土地なんだ」と知った。
 出されたとろろ蕎麦はたしかに美味かった。満腹になった腹をさすって、会計時に出てきた若い娘に彼は「このへんで出来るだけ安く泊まれるところってありますか」と尋ねた。娘は困惑して、「少々お待ちいただけますか?…サイトウさん…」と、さきほどの中年の女を呼んだ。「サイトウ」は腕組して考えて、「安く、ってなるとねぇ…旅館ならあるけど、ちょっとお高いわよねぇ。」

 彼は少し期待外れな気持になった。「観光地」だからきっと宿泊地もあると思ったが、その考えは甘かったらしい。
 「サイトウ」は続けて「そうね、このへんじゃなくて、もうちょっと都会のほうになら安いところもあると思うんだけど…」と言い、彼にはよくわからなかったがいくつかの地名を挙げて「お役に立てなくてごめんなさいね」とだけ言って厨房に戻った。
 若い娘も「申し訳ありません」と言い、続けて「850円になります」と事務的に唱えた。
 彼は「ごちそうさまでした」と、挨拶と礼をして店を出て行った。
 緑が多少夏の熱気を遮っていた。彼はここに泊まれないことを残念に思った。

 11500円。
 彼の財布に入った11500円分の切符にはすでに立花。彦根。湯河原。3つのスタンプ。
 次はどの駅のスタンプを押してもらおうか、と考えながら、彼は高尾の町をぶらぶら歩くのだった。

つな缶。 / とびたつな