レールデュタン

心地よい東風が吹き抜ける夕暮れ、
ふと上を見上げれば、夏の終わりを告げる涼やかな空の色。
もう2、3時間後には、色とりどりの花火がこの空を彩るのでしょう。
校舎から小さく聴こえる“逝ける王女のためのパヴァーヌ”に耳を傾けて
静かに目を閉じました。


武蔵境駅からバスで12分、東京の片隅にあるこの大学に通い始めて、そろそろ4ヶ月が過ぎます。


ねえ、先輩。
覚えていますか。
いまになって、あなたの手紙やメールを読み返したんですよ。

あなたが言ったとおり、
私は大学生になって変わりました。
あのときは、私もあなたもまだ若かった…、そうですよね。
6歳も年上のあなたがもたらす何もかもが
私には新しく感じられて、私まで大人になったようで、
背伸びしている自分に気がつかないほどに、それは、それは楽しかったです。
授業をサボって稲毛までドライブしたり、
誕生日にはシャンパンでお祝いしたり、
年齢に見合わない沢山の経験を、あなたは贈ってくれました。


でも、やはり私達は、
お互いのこと、よく見えていなかったんでしょう。
私は東京の大学にどうしても行きたかった。
あなたはそんな私を笑いましたよね、「ぜったいに無理だ」って。
そしてあなたは「学校の先生になりたい」と、そう言っていましたね。
でも私には、あなたの勉強量では教職は無理だろうと思えて仕方がなかったのです。
そんなことから、私達は分かり合えなくなったのかもしれません。

結局、あなたは一番なりたかった学校の先生を諦めて、
普通の会社勤めに落ち着きました。
就職してからでも「勉強を続けて、もう一度教職試験を受ける」と言い訳して。

あのときの私は、そんなあなたをどうしても許せなかった。

最初に決めた自分の希望を曲げて妥協すること。

それは敗者の、許されざる、恥ずべき行為だと思っていました。


若かった私は「努力でどうにもならないことなんか一つもない」と、信じてやまなかったのです。
諦めることは、全ての終わりのように思えていました。
そう、「世の中、なんでも思い通りになると思ったら間違いだ」っていうことも
あのときの私は知らなかったのです。


努力したからって、すべて思い通りに行くわけではないけれど、
努力することをやめてしまったら、ただただ落ちぶれていくほかはない。
挫折したとしても、そこで投げ出さないことが重要なんだ。


たしかにあなたは挫折を味わい、妥協しました。
でも、それでも勉強を続けていくと、決して歩くことをやめないと宣言しました。
それは、非常に、懸命な選択だったようです。




武蔵境駅は、夜になると仕事帰りの人たちでいっぱいになります。
この駅は小さく、周りにビルも、ビジネス街もないのに
どこからこんなにたくさんの人が集まってくるのか、いつも不思議です。


私はその、ぐったりと疲れ、どろっとした瞳の群集に埋もれながら、
いつからか、こう思うようになりました。
この人たちもきっと、何かに挫折し、妥協しているけれど、
それでもさじを投げたりせずに
毎日それぞれのなすべきことをしている貴い戦士たちなんだ、と。





あのときあなたは、あなたを責める私を諭そうともせず、
「大学生になったら、今まで見えなかったものが見えてくる。
時の流れは、良くも悪くも、君を変えていくだろう」
しずかに、ただそんな予言を残して、
そして、ひとこと、
「君が好きだよ、きっと、これからもずっと」
そう言って、去っていきました。




どうして、何も言い返してくれなかったのですか。

あのときは、そんなあなたの精一杯のひとことも、素直に受け止めることができなかった。



その言葉は、
その声は、
私の心に深くしみいるようで
いまも、おだやかな痛みに肩を震わせています。




パヴァーヌは夕日に絶え入って、静寂が訪れました。
たなびく雲の隙間から、まだ白い月が影をなげかけます。
夜風のさしのべる手は木々のこずえを揺らし、
やわらかな木槿の香りが仄かに頬をかすめました。


私は祈りましょう。
心からの敬意をこめて、あなたの道行きを。














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BGM:月の光(ドビュッシー)
MIDI作者:Windy
http://windy.vis.ne.jp/art/
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少年は荒野をめざす / m