西荻窪

もう、なにもいらない。
お気に入りのあの服も。
何冊もあるぶ厚いアルバムも。
大量の14inchシングルも。
こんな日々、もういらない。

 かつて一緒に暮らしたアイツと別れて5年目の夏。アタシは、それから何人目かの男と暮らしていた。ただ楽しいだけの毎日。アイツとの喧嘩ばかりのあの頃は、あんなにもそんな日々に憧れていたというのに。

RRRRR・・・・

 「もしもし?」
 「ねぇ・・・起きてた?アンタ知ってる?アイツ、死んだって」

 酔っ払って海に落ちて死んだって。アイツらしい・・・。不思議と涙は出なかった。ただ、ただアタシが部屋を出て行くという朝に初めて見せた、涙混じりの笑顔だけが頭から離れなかった。いつものように仕事へ行く支度をして、玄関に出てふいに振り返ったアイツが言った言葉。

 「おまえさぁ、風邪引くなよなぁ」

 涙をポロポロこぼした笑顔でそんなことを言うなんて、やっぱりアタシのことなんてわかっちゃいなかったんだ・・・そう思いながら、アタシはコクリとうなづいた。それが最後のシーンだった。

 アイツが死んだ。別に今となっては悲しみに身を引き裂かれる思いがするのでもなく、そのときの状況をペラペラと話す女友達の声に、なんとなくテレビの向こうの死亡ニュースを聞いているような妙な感覚を覚えるだけだった。もう・・・遠い過去になっちゃった。

 それから2ヶ月。アタシは秋を待つように、楽しいだけの男に別れを告げた。理由なんてなかった。なんとなくつまらなかった、ただそれだけだった。

「アタシね、やり直したいのよ。いろいろと」

 手元にある僅かな貯金。それを持って、どこへ行こう。帰る田舎はとうになくなってしまった。近所の不動産屋にふらりと入って見つけたのは、物件情報にも載らない西荻窪の駅前近くの木造のアパート。「1年半しか契約はできませんよ。取り壊すんだから」それで充分だった。

 ダンボール箱3つとトランク1つだけの、気楽な引越し。昭和40年代に建てられたという木造2階建てのアパートの2階角部屋。周りは空き地ばかりで、窓からの陽射しだけはよく入りそうだった。近くの量販店で安物のカーテンと布団セットを買う。あと欲しいのは、仕事に使う机だけだった。あてもなく今日越してきたばかりの知らない街を歩く。骨董屋だとか、古道具屋だとか・・・そんな店ばかりが目につく。日はとっくに傾きはじめているのに、思うようなものがない。アタシが欲しいのは、どっぷりとした木製の、そう父の書斎に置いてあったような古めかしい机だった。

「もう・・・今日はいいや」

 アパートへの道に出る交差点で、点滅する信号を追いかけようとしたときだった。アタシの視覚に入ってきた古いオルゴール。立ち止まると、角の骨董屋らしき店のすすけたガラスウィンドウにぽつんと置かれたオルゴール。足を止めてじっと見つめる。振り返ると信号はもう赤に変わっていた。店の看板を見上げる。店の奥をのぞくとぼんやりと裸電球が灯っている。

 斜めに長い取っ手のついたガラス戸を引くと、カランコローン・・・古くさい喫茶店に取りつけてあるようなベルが鳴る。「こんばんは・・・」返事はない。アタシはすぐさま、さっきのウィンドウにあったオルゴールを見つめた。ところどころ剥げかけた白い塗装、蓋の真ん中に薄いピンクの薔薇の細工がしてあるけれど、これも所々欠けている。

「お安くしておくよ。鳴らしてみるといい」

 振り返ると、店主と思わしき白髪にやはり白い長い髭をたくわえた老人が立っていた。アタシが黙っていると、老人はオルゴールを取り、裏側のネジを巻く。ゼンマイの巻かれる音と、どこからか聞こえる柱時計の音だけがお世辞にも綺麗とはいえない薄暗い店の中に響きわたる。再びほこりのかかったガラス棚にそれを戻すと、皺くちゃの手でそっと蓋を開けた。流れてきたのは『野ばら』だった。あぁ・・・いつか子供の頃これと同じ音のオルゴールを買ってもらったことがあったっけ。

「これね、ほうら中の人形がね」

そう言いながら老人がつまんで見せた小さな人形は、不思議なポーズをとった白いドレスの女の姿をしていた。

「男のほうが、折れちゃったんだね。ここに置くとダンスするんだけどね」

人形の乗った台座を、箱の中の小さな突起に差し込むと、それは悲しくも、もういないパートナーに手を差し伸べるような格好でくるくると回った。

「かわいそうね・・・ひとりで」
アタシはそう言って老人を見上げた。
「そうでもないさ、気楽なもんだよ」

 茶色の紙袋からそれを取り出し、薄暗い部屋の真中にダンボール箱を置き、乗せてみた。うん・・・そうでもないさ、気楽なもんだよ。老人の言葉を真似してつぶやいてみた。

 新しい知らない街での毎日は、アタシの興味をくすぐった。相変わらずたいした給料にもならないライターの仕事がいくつか入ってくるだけだったけれど、時間さえあると古道具屋へ行って捨ててもいいような家具を買って来ては、直してペンキを塗ってみたりした。この作業に熱中すると、アタシは何時間でも根気よく紙ヤスリをかけたり、明日買ってこなければいけない材料のリストを作ったりして過ごした。古い猫足のテーブルは、足の1本が折れていた。生きている2本足のついた部分の天板を半円に切り、直径の両端に同じ長さの足をつけ西側の窓の下に置いた。そしてそこはオルゴールの定位置になった。

 ある夜。買ってきた木材のサイズがあわなかったので、小さな鋸で切ろうとしていたときのことだった。アタシの不注意で、木材の端がテーブルの上を横切った。振り返ったときにはもう遅く、オルゴールは鈍く重い音を立て板張りの床に落ちてしまっていた。野ばらの一節が途切れ途切れに鳴り、切れた。人形を見るとそのままの姿をしていたので安心し、オルゴールを手にとってゼンマイをまわした。すると、箱の中からカラコロと軽い音がした。

「なんだろう・・・」

 オルゴールを振ってみると、やはり何か入っているようで、時折なかの部品にひっかかるのか音が止まる。向きを変え再び振ると、またカラコロと音がする。

「部品とれちゃったかな・・・」

 オルゴールの蓋をそっと開け、中を見る。左半分は、人形をのせる部分になっていて、右半分がもうすっかりくすんだ赤いビロードが内側に張ってあり、そこに宝石を入れるようになっている。よく見てみると、その部分が少し浮いていた。爪をひっかけると、わずかに開きそうなので、アタシは側にあったマイナスドライバーを差し入れ起こしてみた。

 中には一枚の紙切れと指輪があった。恐る恐るその紙切れを開いてみると、見覚えのあるあの文字が飛び込んできた。5年前のあの日の日付が最後に記されたその紙切れ。

「ごめんな守ってやれなくて、風邪引くなよ」

 古ぼけた指輪の裏側にアタシが見たのは、アイツとアタシのイニシャルと、あの夏一緒に過ごすはずだったアタシの誕生日が刻まれていた。




 その夜アタシは、初めて声をはりあげて泣き続けた。

トレモロ / マリィ。