千駄ヶ谷

 「やめようと思ってるんだ」

 混雑も過ぎた駅のホームで、男は小さな声を漏らした。さきほど着たばかりのカッターシャツはじっとり汗を吸っていた。
 雨の日は蒸し暑さが堪える。

 男の足元には大きなスポーツバッグ。そのファスナーから飛び出しているのは白いスティック。「Ken5」とサインが刻まれている。
 男の隣に立つ背の高い青年は、さっきから足踏みをしていた。カッターシャツとスーツの男に対し、青年は、Tシャツとハーフパンツにボロボロのスニーカー。そしてよく日焼けし筋肉のついた左腕に「Sa10rU」と、タトゥーを入れていた。アコースティックギターをバッグに入れ、大事そうに背負った「Sa10rU」は、足踏みをやめなかった。

 「Ken5」は遠慮がちに「駄目か?」と、訊ねた。「Sa10rU」の目を見ることもなく、うつむいたまま。

 「…駄目っていうか」

 「Sa10rU」が足踏みをやめ口を開いたのは、「Ken5」の「駄目か?」という言葉から2分経っていた。その間に列車を一本見送った。

 「駄目っていうかさ…まぁ、コジンノジユウだと、俺は思うから…」
 思うから。
 その次に続く言葉を「Sa10rU」は飲み込んだまま、ジーンズの尻ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
 吐き出される煙。
 夜に飲み込まれるようだった。

 「Ken5」の気持がわからないわけではなかった。フリーターの自分と違って「会社員」という顔を持ち、仕事帰りにカッターシャツを脱いでTシャツとジーンズに着替え、路上で激しくドラムを叩くということは、きっととても疲れることなのだろう。しかも彼らのバンドは週1などというペースで活動しているわけではない。今日のように天候が悪くない限り、ほぼ毎日のように路上で演奏を続けている。
 「Sa10rU」はそれがメジャーデビューへの近道だと信じているし、他のメンバーもきっとそう思っているはずだ。レコード会社に売り込みに行き、それが上手く行ったとしても、巧みなプロデュースでメジャーになる音は本物の音ではない。路上で活動を続け、自分たちを極限にまで追い込んで、追い詰めて、その姿を目に止め、その音に耳を傾け、心を動かされた者が1人でもいたときに初めて自分たちの音が「音である」と認められることが出来るのだ。そう信じてやってきた。「Ken5」も決してその考えに不満を抱いていたわけではなかった。むしろ結成当初からいた「Ken5」こそそれを信じて続けてきた。ただ


 「疲れちゃってさ…」


 その言葉を「Sa10rU」に聞かせまいとするかのように、次の列車がやってきた。「Sa10rU」は何も言わずに煙草を足元に棄ててスニーカーの踵で火を揉み消すと列車に乗り込んだ。追うようにして「Ken5」も列車に乗った。
 列車の中は空いていて、斜め向かいにリュックを枕にするようにして眠る少年と、その少し離れたところに包みをかかえた着物姿の老婆がいるだけだった。2人とも荷物を床に降ろし、少しの隙間を開けて、隣り合って座った。

 「Ken5」はうつむいたまま白い2本のスティックを見つめた。スティックの先は酷く傷ついている。何度も何度もドラムを叩いた証だった。「Ken5」とサインを刻んだのはエレキの「Yu2」だった。美大を中退した「Yu2」の大学時代の専攻は彫刻だったという。「タルいくらいの仕事だけど魂こめっから」と眉間にシワをわざと寄せて職人面した「Yu2」の滑稽なまなざしが額の裏にはりついて、消えない。

 「さっきの話だけどさ」
 向かい側の車窓に映る二人の姿を通り越してもっと遠くを見るように「Sa10rU」が呟いた。
 「まぁ…俺とケンさんは、立場も、年齢も、違うし、…まあ、何より、コジンノジユウだと思うから…」
 コジンノジユウ。そう言った瞬間に「Sa10rU」の脳裏をふっとかすめた、先ほど揉み消した煙草。4年前から変えていない煙草。あの頃、今のメンバーに出会った。
 「お前のこと、誘ったの、俺なのに…ごめん…」
 大学浪人中だった少年は受験勉強の合間に30分に1度の間隔で図書館を抜け出し、近場の公園に行って煙草を吸った。そこでは3ピースのバンドが音をかき鳴らしていた。みんなまだ若かった。少年の心はとらえられ、家にあったアコースティックギターを持ち出していつの間にか3ピースのそのバンドは4ピースに変わっていた。エレキギターにベースにドラム、そしてアコースティックギターという不思議な組み合わせがかき鳴らす音に少年は手ごたえを感じた。

 「ハマったの、俺だし…ケンさんに罪はないってゆうか」
 自分の言葉が全て本心なのかわからなかった。男の気持の変化に、それとなく気づいていたのは多分自分だけではなかっただろう。いつか来る日のために、誰が受け止めるかわからない言葉のために、いつのまにか頭の中で幾度となく繰り返された台詞だったのかもしれない。
 「ドラムのない3ピースバンドってのも、面白いんじゃないっすか」
 どうしてだか笑って「Sa10rU」は、「Ken5」を見た。男はうつむいたままだった。
 その姿は、演奏に疲れたドラマーではなかった。
 生活に疲れた、サラリーマンだった。


 次の駅が近づいて、列車がアナウンスを告げる。

 <代々木>

 「Ken5」はその声を聞いて肩を落とした。彼が通勤のために乗降する駅。
 ボソリ、ボソリ、お互いの顔も見ることもなく「ヨヨギのコンビニ猫、知ってる?」「ああ、あのやたら甘えた奴でしょ」「可愛いよなあ。朝いつも挨拶するんだぜ」「ケンさんの独り語りっしょ」「まあ、そうだ」くだらない話を途中で止めたのは、扉が開いて入ってきた数人のくたびれた人間たちと、斜め向かいで眠っていた少年だった。
 少年はハッと明らかに驚いた顔をし、焦ってリュックを半端に背負ってみせた。扉までの短い距離を走って、降りようとした手前で、扉は閉まった。彼の表情は明らかに残念な顔に変わる。

 「寝過ごした?」

 「Sa10rU」は相変わらず、どうしてだか、笑ったままの表情で、連日の路上ライブで黒焼けた笑顔で、少年に問うた。少年の年の頃は17、18に見えた。少年は残念な顔のまま照れ笑いをして、「シンジュクで降りる予定だったんですけど」と、表情をさらに和らげた。
 「新宿って俺らが乗ったとこじゃん」
 「Sa10rU」は隣の「Ken5」に、まるでさっきまでの会話はなかったかのような顔をして話しかける。「Ken5」も、それにつられて「ああ、そう」と、少し笑った。
 「やっちゃったねぇ、少年」
 「やっちゃいました…どうしようかな。この先カプセルホテルとか、あります?」
 「ケンさん、わかる?」
 2人の間には、さきほどまでのわだかまりがないように見えた。
 「いや、新宿、代々木を逃したら…次は四ツ谷とか…無難なのは東京じゃないかな」
 そっか、とため息をついて、少年は「Sa10rU」の隣に腰を下ろした。背負いかけたリュックを下ろし、中から財布と携帯電話を取り出すと、時間を確かめながら財布の中からやや大きめの切符を一枚取り出した。
 それは「青春18切符」という名前をもつ切符だ。5回分のスタンプスペースには既に3つのスタンプが押されていた。

 「家出?」
 軽く「Sa10rU」は聞いてみた。少年は少し笑って「違いますよ。ただ、こないだ18になったから、記念に18切符で旅行しとこうと思って」と、素直に答えた。「Sa10rU」は「お前面白い」と少年の髪を撫でた。
 4年前の自分もこんな風にバンドに誘われたのだった。
 「お前面白い。アコギ担当」
 そう言ってくれたのは誰だっけ。Yu2だったか、0noだったか、Ken5だったか。何もかもが上手くいかなくて空回りばかりしていた少年には救いの手にすら思える言葉だった。


 「俺ん家泊まってく?」

 青年は軽く、そう言った。
 少年は軽く、驚いた。

 「袖すりあうもタショウの縁、て言うじゃん」

 あ、これを俺に言ったのはケンさんだ。

 「Sa10rU」が気づき、「Ken5」を横目で見ると、サラリーマンはまたスティックを見つめていた。
  <タショウってのは「多少」じゃなくて「他生」、前世だよ>
 勘違いしていた少年に笑いながら教えたのはライブでかいた汗をタオルで拭いていたドラマーだった。


 「ケンさん…」


 その声を塞ぐように。
 アナウンスが流れた。


 <千駄ヶ谷>



 「俺、降りるわ」
 「Ken5」は、立ち上がり、スポーツバッグから覗いていたスティックを引っ張り出すと、「Sa10rU」の膝に乗せた。
 「ケンさん、家…」
 「コンビニ猫、欲しくてさぁ」
 汗が乾き冷えたカッターシャツを着たまま、「Ken5」は立ち上がって伸びをした。その両腕のたくましく整った筋肉が彼がドラムを叩いた回数を物語っていた。
 「代々木に戻る」

 そして、男は、スポーツバッグを手にすると、開いた扉から出て行った。扉は少しばかりの人を乗せて、また閉まった。

 青年は、しばらく黙って、それまで「Ken5」が座っていた席を見つめていた。その視界を壊すように、ひどく疲れた様子のサラリーマンが腰かけた。


 青年の中で何かが飛んだ。


 2年目の受験に失敗したあの年、彼は母校の窓をこぶしで1つ割り、「ギター弾きが手を怪我してくるな」とエレキ担当の雄二にたしなめられて病院に行った。
 「お前面白い」そう言ったのは大野。
 「袖すりあうも」そう言ったのは健吾。


 青年の中で何かが飛んだ。


 「コジンノジユウ」その言葉を初めて使ったのは、図書館で席を立つ少年をひきとめる幼い恋人にだった。



 膝の上に置かれた白いスティック。「Ken5」と彫られた白いスティック。その先端はボロボロで、どれだけ男がドラムを愛していたかを物語っていた。

 青年は、自分の足元に置いたギターを膝にかかえて、白いスティックで、カバー越しに、トン、トトン、とリズムを刻んだ。
 そして隣の少年に、笑顔を向けて「なぁなぁ、アコギ弾きながらドラムやるバンドって面白いと思わねぇ?」



 サラリーマンになったドラマーは、代々木駅前のコンビニで、いつもの猫に話しかけ、コンビニの店長に話しかけ、猫を抱き上げていた。



 千駄ヶ谷を出発した列車は、青年と、少年と、そして疲れた人々を乗せて、次の駅へと向かっていた。

つな缶。 / とびたつな