東京

 11500円。
 彼の財布の中には11500円分の切符が入っている。
 5回分の利用欄にはすでに3つのスタンプが押されていた。立花。彦根。そして湯河原。
 彼は今朝、湯河原を出た。温泉にもう1度入り、海を眺望してから鈍行列車に乗った。
 高校生活最後の夏休みだった。受験勉強を特別するわけでもなく、何とはなしに「アルバイトから正社員になろう」という願望を抱いていた。彼が通う高校は県内でも有名な進学校だった。周りは2年の3学期あたりから必死に受験勉強を始めていた。特別講習も開かれていた。しかし彼は講習に出るわけでもなく、予備校に通うわけでもなく、ただただ「夏休みになったら1人旅に出よう」と決めていた。理由は「18歳になったから、18切符で旅に出るのが妥当だ」というだけのことだった。
 特別興味のある土地があったわけでもない。自宅近くのJR駅からただ鈍行で東へ向かった。景観の気に入った土地で降りた。そしてその土地をぶらぶら歩き、気に入れば携帯から安い宿を探して一泊し、また列車に乗る、ただそれだけの旅だった。目的も何もなかった。彼はそれで良いと思っていた。
 次はどこで降りようか。
 彼は赤い横並びの固いシートに腰掛けながら考えた。

 ぼんやり、「東京」と思い浮かべた。

 彼は東京に行ったことがなかった。修学旅行では沖縄に行った。あれはあれで良かった。神戸や大阪に出かけることもたまにあったが、同級生に連れられて、という感じであった。
 彼は決して内向的な人間ではない。けれど、特別に社交的というわけでもなかった。1人でいるのも好きだった。
 だから、自分がクラスメイトと違った方向性を歩んでいることにも違和感を感じはしなかった。そんなものだろう。と、彼は思っていた。

 東京。

 彼の中に東京のイメージがあった。とんでもない人ごみ。高層ビル群。流行の発信地。全ての中心。ごちゃごちゃした街並。
 決して人ごみは好きではなかった。しかし「一度は行ってみるのもいいだろう」と彼は考えた。

 東海道本線の終着地、東京。
 彼は列車を降りるとまずその人の多さに驚いた。今まで降りた駅はいずれもたいした人ごみではなかった。いても観光客だった。しかしこの駅は違った。乗降する人々はスーツや私服、制服に身を包み、地元住民のような人間もいれば観光客のような人間もいた。彼はホームで一瞬立ち止まった。

 ひとまず階段を降りてみた。
 あまりにたくさんの矢印とカラフルなまでの色で示された「~線」の多さに彼は突然に疲れを覚えた。とりあえず一度改札を出てみた。新幹線口には大量の人間がいて、また別のところで大量の人間が交わらない矢印であるかのように様々な方向へと向かっていた。
 キオスクというよりもコンビニと言っても良さそうな店に立ち寄った。店内は混雑していた。しばらく待たされて缶コーヒーとおにぎりを買った。お土産品も多く売っていた。それらのお土産品へと伸びる手もまた多かった。

 店を出て彼はおにぎりを食べ、それから缶コーヒーを飲み干した。少し疲れが取れた気がした。
 ぐるり、駅を見渡した。駅から外へ出ようと思ったが、出口がどこにあるのかすらわからなかった。

 これが「東京」なのだな

 彼はそれを飲み込むときびすを返し、再び改札に向かった。何線に乗れば良いのかわからなかった。
 ただ、ふと目に入ったオレンジ色の印が彼は気に入った。
 荷物の少ないリュックを背負いなおして、彼はオレンジ色が示す階段を上る。
 東京駅がこの「オレンジ」の発駅であるらしく、ここにもたくさんの人間が集まっていた。
 彼も静かにそこに混じった。
 そして列車に乗り込むと、シートに座って窓から外を眺めた。

 「東京」はどこへ続くのだろう。
 視界の奥で考えながら彼の旅は続く。

つな缶。 / とびたつな