人心事故

希望のないパンドラの箱を開けてしまった。

各駅停車の電車から降りてから、
目の前の1番線のホームまで数歩。
たった数歩なんだけれど、
毎日この人であふれるホームを泳ぎ渡るのには
少々うんざりしていた。

改札の方へ歩いていく人も多いし、
乗り換えのために立ち止まる人も多い。
そうした人の流れと停滞が生み出す感情の渦、
その中心は確かに存在していて、
ある時僕はそのポイントに気づいた。



そこに立つと声が聞こえてくる。
『仕事めんどくせぇ』
最初に聞こえたのはそんな声だった。
それからいくつもの感情が流れ込んできて
すぐに聞き取れないほどの数になる。

他人の心、あるいは頭の中を
のぞき見するようなその感覚に
妙な興奮を覚えてしまった僕は
頻繁にその場所に立つようになった。



多分少し前のことだ。
僕がいつものように渦の中心へ向かうと、
一人の男が蒼ざめた顔でうずくまっていた。
少し離れた場所から少し様子を見ていると、
その男はなんとか立ち上がって
頼りない足取りで聖橋口への階段を上っていった。

その男も気づいてしまったのだろう。
そこでその場にいる人間の心を受け取り、
気分を悪くしていたに違いない。
倒れそうになるほどの感情の声の束、
それが一体どんなものなのか知りたくなって、
純粋な好奇心から僕はその場所に立った。



それからしばらく、僕の記憶は途絶えた。
気がつくと僕は病院のベッドで横になっていた。

なぜかろくに動くこともできなくって、
身の回りの世話をしてくれる看護士や
回診に来る医者や見舞いに訪れる友人が怖い。
誰かが近くに来ると、背中に嫌な汗を感じる。



あの日、僕が受け取ったモノ。
その場にいた誰も彼もが平凡に見えたあの駅で
僕に向かって流れ込んできた渦。
思い出す度に戦慄する。
震えが止まらなくなる。

食事を持ってきた看護士から
逃げるように布団にもぐりこんだ。

もう、このままずっと眠っていよう。

World With Words / Tomo