Night view in "A"

 やや内股気味に、電車の中で座っていた。乗車してからずっと、膝の上で、携帯のストラップを弄っていた。何の変哲もないビーズのストラップ。一粒一粒のビーズをくるくると回す。そしてときおり、携帯の背面ディスプレイに目をやる。
 何回もそれを繰り返していた私は、ふと顔をしかめた。
(なんか、メールが来るのを待ってるみたい。)
 自分の思いつきに、さらに顔をしかめると、ちょうど電車が止まった。少しバランスを崩しながらも、立ち上がる。ドアが両側へと引いて、真正面から、冷たくなってきた風があたった。躊躇いを感じながらも、一歩。電車から降りる。
 ここは浅草橋だった。

 外へ出ると、もう日は暮れかかっていた。幅広い道路には車が行き交い、夕日を車体がはじき飛ばしている。そして歩道には、学校帰りの学生やアベックが歩いていた。
(やっぱり、来るんじゃなかった。)
 苦々しく胸の内で呟く。
 そもそも、何で浅草橋になんて来たのだろう。先週喧嘩別れをしたアイツの好きなところに来たところで、嫌な思い出しか浮かばないというのに。
 本当は、今日、一緒に浅草橋に来る予定だった。あそこの景色、夜になるとキレイだから、と誘われたのだ。
 私は目線を足下に落として、溜息をついた。このまま帰ってもいいはずだ、と思いながらも、何故か躊躇っていた。また、鞄から垂れ下がっているストラップに触れようとしている。
 やっぱり、私はメールを待っている。渋々と認める。
 どうせ、アイツからメールをしてくることはないだろう。かといって、私がするのも変な気がする。アイツに未練なんてないのだから。
 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと何回も繰り返した。

 帰ろうかと思いながら、私は駅を出てぶらぶらと歩いていた。建ち並ぶ問屋を外から眺めていても、気は滅入ったままだった。結局のところ、アイツのことばかり考えている。何でこんなに、今更になってアイツのことばかり考えてしまうのか、不思議なほどだった。
 コンクリの地面を蹴って、小石を飛ばした。
 いっそのこと、私からメールをしようとも思ったが、その度に頭を左右に振って、その考えを追い出していた。強がりなんのだと分かってはいる。そんな自分に、微かに頬を膨らませた。
(あ、もう、夜。)
 気がつけば、街灯が白く辺りを照らしていた。
(そういえば、アイツ、夜になると…って言ってたよね。)
 何を見せようとしていたのだろう。今は夜。アイツの景色、見つけられるかもしれない。どうせ大した景色なんてないに違いない。何もないことを確認して、アイツを鼻で笑ってやろう。そして、別の人を見つければいい。
 そう思って、少し足早に通りを歩いた。相変わらず店、店、店。何の変哲もないまま、どこまでも続いていくようだ。携帯を握ったままの手が、少し、汗ばむ。なかなか、これ、という景色を見つけられず、気持ちが焦る。
 だが、通りを抜けた瞬間、一気に視界が変わった。
 目の前に川が現れていた。闇夜の色をした川に揺られて、屋形船があたたかい光を放って浮かんでいる。船が揺れて、灯りも揺れて、水面に映った光もゆら、と揺らめいた。
 それを見て、アイツが見せたかった景色はこれだと、分かった気がした。
 二人で眺めれば、きっと、心地良いに違いない。
「…ちくしょー…キレイ…」
 噛みしめるように呟いても、屋形船の灯りに照らされるのは、私の影しかない。あとは忙しない歩行者たちが、すぐに通り過ぎていくばかりだ。
 川の薫りを含んだ風が、微かに湿り気を運んできていた。それに吹かれて、水彩画のような景色は少しずつ滲んでいた。
 負けた。そんな感じがした。
 私は少し悔しく思いながら、携帯を開いた。

土の双唇 / 宙人