午前11時

時計の針は今、午前11時を少し過ぎた辺りを指している。
だから晶子は、眼前の友人に話してみようかという気になった。
友人は相変わらず美しくウェーブした髪の間から小顔の覗かせて
満面の笑みでひっきりなしに晶子に話し掛けていたから
タイミングを見計らうのに少し躊躇した。




晶子がまだ小学4年生だった頃、
隣家に幸裕という男が引越してきた。

幸裕がどんな素性の人間なのか晶子は全く知らなかったが、
一晩中飽きもせずにギターを弾いているような生活をしていた事だけは
よく憶えている。


晶子は物心ついた頃から母親がいなかった。
けれど母親が居ない事が
晶子にとっては別段不思議なことでもなかったから
その事実について余り深く考えた事はなかった。
だから中学3年生になってからやっと
母親が2歳の時に亡くなったことや、
父親が不動産屋を営んでいることを知った。
それまでは、父親は「家を作っている人」つまり大工だと思い込んでいたし、
自分の住むアパートの大家が父親であることも知らなかった。
だから隣家の幸裕が懇意にしてくれることが
晶子のその生い立ちや境遇に拠るものであることには
本当に後になってから判ったことなのだ。

それまではずっと、
幸裕は無条件で自分を好いていてくれているのだと晶子は思っていた。


幸裕が引越してきた当初から聞こえるようになったギターの音は
いつでも微かに聞こえる程度で、一度もウルサイと思ったことはなかった。
寧ろ晶子は、その微かなギター音が
独りで眠る自分の為に子守唄を歌ってくれているようでとても気に入っていたから、
その音が聞こえない時は、何だか幸裕に見捨てられたような嫌われたような、
そんな寂しい気持ちになった。

幸裕はいつも髪型はボサボサだったし、
とてもお洒落とは言い難い服装をしていた。
ジャージ姿で近所をうろついていることも頻繁にあった。
けれど、晶子の主観だけではなく幸裕はモテるタイプだったと思う。
童顔だったけれど、整った顔立ちだったし背も高かかった。
何よりとても優しかった(これこそは晶子の主観だが)。

そんな隣人は隔週に一回程度、小奇麗な格好をして、
決まって午前11時頃に出かけて行くというパターンがあった。
何故か出掛けに必ず晶子を散歩に誘い、
12時ジャストまで付き合わせて
別れ際に板チョコレィトを渡すことが習慣だった。
小奇麗な時の幸裕は、晶子にとっては別人のようだったから、
どきどきしてマトモに顔をみることが出来ず、
晶子はいつも礼を言い損ねていた。

晶子は今でこそそれが
「彼女の家に行っていたのだろう」という俗な考え方や、
「ライブをやっていたに違いない」という
正当な考え方が出来るようになったけれど、
事実だったのかどうかは別にして当時はそんなことなんて判らなかったから
幸裕はいつか、晶子をお嫁さんにしてくれるのではないかと思っていた。


小学校から帰ってくると、
幸裕はよくアパートの庭先で煙草をふかしていた。
そして晶子を見かけると必ず快濶に

「ショウちゃんおかえり。・・・ああ、僕はねショウちゃん。
君のその姿を見かけるといつも今日がまた終わってしまった事を実感するよ」

と言って、大袈裟に悲観した。

晶子はそうして幸裕に会えることが嬉しかったから
必ず一度帰宅してから友人の家に遊びに行った。
それでも時折、もしからしたこの人は
ちょっとオカシイ人のかもしれないと思った。
そしてそう思うたびに必ず、何故かタイミングよく庭先に出てくる
幸裕の隣家に住む高橋という名の小母さんが

「ショウちゃん。このオジサンは暇だからって
ショウちゃんに遊んで欲しいと思っているちょっとオカシイ人なのよ。
相手にしなくて良いからね」

と笑いながら言うのだった。

高橋の小母さんはいつでも面白がって
幸裕をオジサン呼ばわりし馬鹿にしていたけれど
晶子が11歳だった当時から計算すると幸裕はまだ23歳だった。

しかし当の幸裕は別段嫌そうな素振りも見せず

「高橋さん。僕は実際こうやって年老いて行って
そのうち本当にオジサンと言われても否定出来ない歳になってしまうんですよ。
どうです、これ。こんな人生って結構笑えるでしょ」

と、言い放っていた。

そう言いながらも幸裕は、実際に人生を悲観していた訳ではない。
何故なら幸裕がいつものように
午前11時に晶子を散歩に誘ったある日、
何を思ったか晶子は生意気にも幸裕の素性を尋ねたことがあった。

「僕はね、音楽を作っている人なのさ」

近所の土手に二人で転がりながら、
幸裕はつまらなそうな素振りで草を毟り
けれど嬉嬉として其れを放り出し言った。

「いつか僕はTVにも出るようになるからね。きっと凄く有名になるよ。
そしたらショウちゃんは僕のことをどう思うかなぁ」

晶子はその時、ただ黙って幸裕の言葉を聞くこと以外の術を知らなかった。


余談だが、その頃の晶子は不思議なことに
幸裕の一人称が「僕」であることすらも好きだった。
幸裕が晶子に向かって声を掛ける度、
晶子は幸裕が「僕」と言って自分のことを語ることを期待していた。
後にも先にも、晶子の前で「僕」と語る人間は幸裕だけだった。
当たり前だと思っていたその一人称が
貴重であることを知ったのは晶子が大学生になってからのことである。

異常なほどの愛着を持っていた。
いつでも晶子の世界に居た男は幸裕ただ一人だったから。


その当時、今の日本では考えられないほどに
アパートの住民達は皆、仲が良かった。
仲が良過ぎた為に、高橋の小母さんが後に
晶子にとっては母親と呼ばなければならない立場になってしまったのだと思うし、
幸裕とは二度と会えなくなってしまったのではないかと
晶子は今でも思っている。

勿論晶子は、継母が嫌いな訳はない。
寧ろ、父親と一緒になってくれたことに感謝しているし、
とても好きだと感じている。
だから尚更なのか、今でも関係の続いている人が多い
当時のアパートの住人達の仲に幸裕だけが含まれていないのが
晶子にとってはとても哀しいことなのだ。




「知らなかったなァ」

氷の溶けかかったアイスミルクティをストローでかき混ぜながら
友人の比呂乃は何処か遠くを見るように感慨深げに言った。
晶子は、既に冷めてしまった珈琲カップを両手で包みながら、
友人の柔らかくウェーブした美しい髪を眺めていた。
パーマをかけてみようかと晶子は思った。

社会人になってからの晶子は、
あれほど大好きだった午前11時がもう余り好きではなくなってしまった。
昼休み直前のその時間帯は誰しもが早く過ぎて欲しいと祈る、忘れされられた時間。
晶子が心躍らせた時間は、今では少しの希少価値もなくなってしまった。

もう一度知らなかったわと言った比呂乃の声で晶子は我に返った。

「言わなかったもの」
「ホントにね!信じられないわアンタって」
「どっちにしろ信じなかったでしょ」
「まぁねぇ・・・。当時なら絶対信じなかったな」

当時とは恐らく、幸裕がTVにも頻繁に出演していた、
所謂全盛期の頃のことであろう。

「今は・・・どうしているのかな」
「知らない。でもきっと今でも何処かでギター弾いてるんじゃないかな」
「それはアンタの希望でしょ」

比呂乃はのほほんと言ってのけた。

「そりゃあ勿論。そうして居て欲しいからね」
「・・・ねぇ、アンタさ。私があの人のライブ行こうって誘った時憶えてる?」
「憶えてるよ。私ライブには行きたくないって言ったんでしょ」
「そうそう。あの時アンタのことさ、ツマンネー女だなぁって思ったんだよね」
「そうだろうね」
「ごめんね、あの時は」

比呂乃の真摯な顔を見て、晶子は思わず吹き出した。

「何で謝るのよ」
「だってさあ。ショーコにとってはそういう大事な人だった訳で、
でもそれを言えないような人間だった訳でしょ、その時の私って」
「違うよ。私が独り占めしたかったの。
本当はさ『ユキちゃんは私だけのものなのに!』って思ってたんだ。
思い出を独り占めするのと、誰かを占有することは同義じゃないのに・・・。
大体誰かを、人を占有することなんて出来ないのにね。
ごめんね。比呂乃、あの人のこと大好きだったのにね」
「あはは。いいのいいの。だって私にとってはあくまで彼は有名人でさぁ。
今考えればただの憧れ程度でショーコとは全然違うから。
でもさ知り合いだって知ってたら『ライブチケット優先で取ってよ!』ぐらいは言ったかも」

その発想に晶子は思わず声を立てて笑ってしまった。
今考えれば。過去に出来ることが酷く晶子には恨めしかったけれど。

「あの時はもう、全然連絡も取ってなかったから
会う事どころかチケットだって無理だったよ。
私こそホント、ただのファンだったから。
本当のこと言うとライブ行きたかったんだけどね」
「そうなの?!アンタいつもすっごく醒めてたのに」
「そりゃ・・・だってさっきも言ったけど私は勝手に変な優越感持ってし。
でもね、私も比呂乃と一緒だよ。私だってもうただ憬れてただけだったから。
ううん、一緒って言うより寧ろ誰より私って性質が悪くてさ、
ユキちゃんにとって、私だけは特別じゃないかって思ってたんだよね」

晶子のその言葉に、比呂乃は突如瞳を輝かせて僅か身を乗り出した。

「ねぇ本当はさ、何かあったんじゃないの?」
「何かって、どういう意味?」
「だからさあ。誰も知らない二人だけのロマンスっていうか。
他の人が『何だそんなこと』って思ってもさ、
ショーコにとってはプロポーズって思えるくらいのさ!」

比呂乃は胸の前で両手を組んで遠くを見た。
その演技がかった仕草が如何にもらしくて晶子は苦笑する。

「そんなの・・・あったら良かったけどね」
「なぁんだ、そういうのあったのかと思ったにィ」
「何で?」
「だってさ、ショーコって現実主義っぽいとこあるじゃん。
そんなアンタがそれだけ優越感を持てるってことは
それなりのことがあったのかと思ってぇ」
「つまり私も案外夢見る少女だってことが判ったでしょ」
「ハイハイ判ったわよ。もう少女って歳じゃないけどね。
でも凄いなぁ。あの人がまさかショーコの知り合いだったとはなァ」

比呂乃はこう見えて案外勘が善いのかもしれないと晶子は思った。
僅か申し訳ないような、妙な罪悪感が湧いて晶子は再度時計を見る。
午前11時46分。もうすぐ11時が終わってしまう。
そう、比呂乃が言うように晶子にはそれ相応の優越感の要因があった。
けれどそれはとても口に出来るほどのことだとは晶子には思えなかったし、
実際にそれほどの事柄だとは思えない。

でも、ひとつくらい。
ひとつくらいは、胸に秘めて置きたい幸裕との思い出が晶子にもある。



それは幸裕のメジャーデビューが決まった日のことであった。
但しその日がメジャーデビューであったと知ったのは、
幸裕が有名になった後に晶子が自ら調べたことだった。
その頃の晶子は高校3年生になっていて、
入学当時、初めて目にする男子の詰襟制服に心躍る日々を過ごしたことも
もう遠い過去の話になり、差し迫る大学受験に僅か怯えていた頃だった。
幸裕への想いが醒めた訳ではなかったが
その頃の晶子はもう、充分現実を知っていただけだ。

昔のような夢なんて持てない。
幸裕は29歳になっていた。


「僕さ、多分もうすぐ引越すんだ」

土曜日のその日、
矢張り午前11時頃晶子を散歩に誘った幸裕は唐突にそう切り出した。
定例化していた筈の散歩も徐々に回数が減り僅かに久しぶりだった。
いつもならば別れ際に渡す板チョコを先に手渡されながら
晶子は何も言えずただそれを受け取って下を向いた。
先を歩き出した幸裕の踵だけがやけに目に付く。
ボロボロのスニーカー。一緒に土手を走ったあの時の靴だ。
まだこんなものを履いていたのか、この人は。
晶子はこんなにも変わったのに、幸裕の方は
あの、小学生だった晶子と一緒にいた頃と
何も変わっていないように見える。

「ショウちゃんには何だか世話になっちゃったね。
あの時の、小学生だったショウちゃんが今はもう
こんなに綺麗になって女の人になってさ。
もう高校生でしかも受験生なんだもんな。
こんな風に連れ出したりしたら、こりゃ犯罪かな」

前方からの幸裕の声だけが虚しく響いていた。

「・・・小学生の頃連れ回してたことの方が犯罪だと思うけど」
「ははは。ショウちゃんは相変わらずキツイんだよなァ」

頭を上げて前を見ると
幸裕はボサボサの己の髪を軽く撫で付けた。
本当に照れているようだった。

「ショウちゃんはさ、いっつも僕にキツイ一言かますんだよね。
『ホントにTVに出る気ある?』だとか『それでも大人なの?』とか言っちゃってねぇ。
高橋さんもそうだけど、何だって皆して僕にキツイのだか・・・」
「ユキちゃん」

言葉を遮って呼びかけた晶子の声に幸裕は振り向き立ち止まった。
ポケットに手を入れたまま斜に晶子を見る。
水晶玉のような目。晶子の大好きな色素の薄い瞳。
もうこうして真近に見ることは出来ないのか。

急に泣きたくなった。

「そんな思い出話とか別に要らないから、ホントのこと教えてくれる?」
「『別に要らない』って、ははは。酷いなぁもう。
まぁ善いや。何でも答えるよ。言ってごらんお嬢さん」
「引越しても構わない。よく判らないけど、ユキちゃんそうするしかないんでしょ?
引越さなきゃいけない理由を教えて」
「『構わない』って凄いね君。ショウちゃんは昔から僕よりずっと現実的だよね。
『行かないで!』とか期待してたんだけどな、僕は」

幸裕はそう答えて笑った。
晶子は涙を必死に堪えていた。こうして冗談で逃げようとする時、
そんな時の幸裕は何かを誤魔化そうとしているのだ。
晶子は知っている。幸裕は優しいから言えないだけだ。

「行かないでって言ってもユキちゃん行っちゃうんでしょ」
「そんなことないかもしれないぞ」

然し幸裕は案外真面目に答えているのかもしれないと晶子は思った。
誤魔化してなんていない。幸裕は初めて真面目に答えてくれたのではないか。
こんな表情、今まで晶子は見たことがなかった。
然し晶子は逆に此処まで至っても尚、己の知らぬ表情がある幸裕が
矢張り自分の手の届かない人なのだと実感してしまった。

「ユキちゃんやっぱり誤魔化した」
「えぇ?この期に及んで僕が何を誤魔化しますかね、お嬢さん」
「私、引越しの理由訊いたのに・・・」
「はっはっは。それか」

幸裕は踵を返した。晶子はそれが答えなのだなと確信した。
けれど幸裕は意外なことを言った。

「僕がさ、君にずっとチョコレィトを渡していただろ」
「・・・うん」
「あれ、何でだか知ってる?」
「知らない。私チョコ嫌いなのに」
「嘘っ!そうなの?」
「・・・知らなかったの」
「嗚呼、やっぱり僕は最後まで間抜けか」

晶子に響く幸裕の「最後まで」という言葉。
矢張りこの人はどんなに晶子が呼び止めても行ってしまうのだろうと
改めて実感するその言葉。

「あのアパートに引越してきた日にね、君のお父さんが
『晶子はチョコレィトが好きなんだ。これからよろしく頼む』
って言ったのだね」
「あの人は私のこと余り知らないのよ。
アパートの住民は皆知ってるよそんなこと。
高橋さん・・・お母さんの方がよっぽど私のこと知ってるもん」
「はぁ・・・そうかい。僕は丸っきり鵜呑みにしてたよぅ。
オカシイなぁ。高橋さんより僕の方がずっと
君のこと知っているって自負があったのに」

晶子は吃驚した。たったそれだけの言葉を信じて
幸裕はずっと晶子にチョコレィトを渡し続けてきたのか。
否、多分それだけではない。晶子は何故か確信した。

「ユキちゃんは何でいつも11時に散歩に誘うの?」

晶子がずっと気に掛かっていたことを問い掛けると
幸裕は僅かに苦笑して、ポケットから懐中時計を取り出した。

「僕はね。小学生の頃父親を亡くした」

掌の時計を見つめたまま、幸裕はぽつりと言った。
辿り着いた土手で昔のように腰を降ろして
晶子はただ黙って幸裕の横顔を見た。
前ほど羞恥心が沸かなくなったのは大人になった所為だろうかと晶子は思う。

「僕のお父さんは何だか変な人でね」
「ユキちゃんはお父さんに似たんだね」
「君ねぇ・・・」

晶子は何と言っていいか判らず思わず冗談を言ってしまった。
幸裕は愉しそうに笑って話を続けた。

「一週間くらい家を空けたと思ったら必ず11時帰って来る。
11時って昼のね。何をしているんだか僕はさっぱり判らなかったけど・・・。
後から知ったけど彼もね、音楽をしている人だったんだ。僕とは種類が違うけど」

晶子は黙って幸裕の話を促した。
これだけ幸裕と一緒にいるに、幸裕の家族の話を聞いたのは初めてだった。

「そして帰って来ると僕に必ずチョコレィトをくれた。
僕は父親にそうやっていつもチョコレィトを貰っていたから
虫歯だらけでね。それで父親を恨んだよ後々」

晶子は笑った。情景が目に浮かぶようだった。
幸裕の父親どころか家族の誰も目にした事がないのに。

「僕はお父さんが大好きだった。
何だか訳が判らないことばかり言う人だったけど
母親が僕を叱るといつでも庇ってくれた。
ウチには歳の離れた出来のいい兄貴がいたから
母親はいつでも僕と兄貴を比べてね」
「うん」
「そうしてお父さんが僕を庇うと母はすぐ
『アンタは家に大してお金も入れてない癖に何を言ってるの』なんて
逆に叱られてしまうのに、それでもいつでも僕を庇うんだ。
『こいつは大物になるんだぞ。僕に似てるんだから』なんて言ってね。
そんな家族だったけど仲は良かった。多分ね。僕はそう思ってる」
「うん、私もそう思うよ」
「そうかァ。ショウちゃんがそう思うならやっぱり仲が良かったんだな」

幸裕は寂しそうに笑った。

「けれどお父さんは僕を残して死んでしまった。交通事故だった。
母親は酷く泣いて暴れて、でも僕はずっと信じられなくて、
日曜日の11時にはお父さんが帰って来るからと随分駄々捏ねた。
今考えれば・・・お母さんは辛かっただろうな。
大人になってから、兄貴が唐突に
お前はお父さん子だったから寂しいだろうけどなんて言いながらね、
母親が再婚したことを教えてくれた」

知らなかった。幸裕の両親も再婚なのだ。

「僕は既に家を出ていて、母親とはかなり疎遠になってしまって。
兄貴はいつも僕のことを心配して色々してくれたけれど、
僕は如何にも素直に受け入れられなくて。
だから言い出せなかったんだろうな。
僕に残ったのはこの、お父さんが愛用していた懐中時計だけだったから。
必要以上に此れを大事にしていたしね。
僕はでも、それでその時やっと兄貴の優しさには気づいたけれど、
愛っていうのが何なのか、あっさり見失ってしまったんだ」

愛、なんていう晶子にもよく判らないことを幸裕は言葉にした。

「僕は高校を出てから直ぐ社会に出て
所謂サラリーマンをやっていたことがあって」
「ホントに?似合わない」
「ははは。そうだろ。仕事をしだしてからの僕は
あんなにお父さんの帰りを待ち侘びて、
あんなに大好きだった午前11時が嫌いになってしまった。
早く過ぎてしまえなんて思うようになってさ。
あんなに、本当に大好きだったのに、忘れてしまったんだ。
それはそれは簡単に、ね」

その気持ちは晶子にも判らなくはない。
午前11時なんて昼食休み直前の時間帯は、まるで気にも留めないから。

「仕事を辞めたと同時に此処へ引越してきて、
それから僕は、君をみて唐突に思い出した。
何だかまるで・・・僕みたいな子が此処にいるぞと思ってね」

なるほど、幸裕が晶子に優しかったのは己を投影していたからなのだ。
晶子はそれが、嬉しいような、けれど矢張り少し寂しい気がした。

「ごめんね。僕は多分、
あの頃の父親がどんな気持ちで僕のことを思っていたのか確認したかったんだ。
ショウちゃんにああすることで」
「消化させたかったの?」
「渋い言葉使うなぁ。昇華ねぇ。次の歌の歌詞にしよう」

晶子は幸裕の言葉のニュアンスが微妙に違うような気がしたが黙っていた。
如何思おうと恐らく幸裕は自分の中で清算させたいだけなのだ。
現状を。

晶子と一緒に過ごした日々を幸裕なりに決着つけようとしているのだ。
哀しかった。

「ユキちゃん、また帰って来て。此処に」
「え?う、ううん。それはまァ何と言うか」
「嘘でもいいんだ」
「嘘でもって。嘘はダメだって。僕のお父さんも
君のお父さんも嫌いなんだよ嘘を吐くのは。よく言われただろ」
「うん。そうだね・・・よく言われた」

晶子は如何したら幸裕の気持ちの中に僅かにでも自分が残るかを
必死に考えた。けれど結局良い案が浮かばなかった。
先に言葉を発したのは幸裕だった。

「だからさ、嘘は吐かないよ僕は。
嘘じゃなくてまた僕は此処に来るからさ。
別にいつまでもあの家に住んでてって話しじゃなくて、
また僕が『やぁ』って急に来たら温かく迎えてよって話し」

晶子は驚いた。あの話の流れから
幸裕がそんなことを言ってくれるとは思わなかったのだ。

「──判った。じゃあまた来てね」
「うん、来るよ」
「11時に来てね。昼の11時ね」
「判ってるよそれは。じゃあショウちゃん。僕もひとつ言ってもいい?」
「何?」

晶子はどきどきした。何を言われるのだろうか。
この期に及んでまさか。

「僕が有名になってTVに出るようになったら忘れずチェックするように」

晶子は噴出してしまった。何だそんなこと。

「良いけど、ファンにはならないからね」
「・・・なれよ」


幸裕は大した荷物を運び出さないうちに引越していった。
最後に晶子は幸裕を握手をした。
二度と掴めないかもしれないその手を、
初めて繋いだその手を離したくなかった。

結局好きだったことすら一言も言えなかった。
けれど晶子にはあの約束がある。
喩え嘘でも。幸裕が忘れてしまっても。
あの時あの場面で優しさを見せてくれた幸裕が
晶子は矢張りとても好きだと思った。




「ショーコ、そろそろお昼だからさ、場所替えない?」
「ああ、そうだね。お腹減った」

晶子は比呂乃と二人店を後にした。
午前最後の時間帯は簡単に過ぎてしまう。
幸裕も何処かで同じように感じていれば良いのにと晶子は思った。
比呂乃が唐突に晶子に言った。

「ひょっこり帰って来たりしないのかしら、ユキヒロ」
「メディアに?でも売れるのって存外に難しいことなんだろうし」
「違う違う。メディアにも戻って欲しいけどさ。そうじゃなくて」
「ああ・・・あのアパートにってこと?まさか今更」
「ああん、そうだよねぇ。生ユキヒロ見たかったんだけどなぁ」

比呂乃のミーハーな気持ちもよく判る。
晶子だってもう一目で良いから彼に会いたいと本当に思う。
けれど彼は恐らく戻ってこない。あれは幸裕の優しさだったのだ。
比呂乃は勿論そんなことは知らないけれど、彼の約束は嘘だった。
嘘をいう優しさ。晶子はこの歳になってやっと気づいた。
だから彼はもう戻ってこないけれど。

多分、それで良いのだ。



「アンタ携帯鳴ってるよ」
「この音はメールだから。あ、お母さんだ」

晶子はバックの中の携帯電話を取り出しその液晶を眺めた。
どうせ夕飯の有無だろう。

「ショーコ如何したの?」


晶子は本当に凍りついた。
冗談にしても質が悪過ぎる。
否、母親が知っている筈ない言葉。


ユキちゃん、本当に?

本当に帰って来たの?



『このアパートの住人は相変わらず僕にキビシイです。
久々に帰ってきたのにこの待遇。泣くぞホントに(T_T)
ちゃんと11時に帰ってきたのに、ショウちゃんは居ないしさ。
何処ほっつき歩いてるんだい?羨ましいぞ不良OL(^_^)v ユキ』

深海浮遊 / minimurin