Crossing

目覚まし時計が『朝』を告げる。
こだわりを持って選んだ電波時計だ。

毎日決まった時間に起きているせいか、
最近ではすっかり寝覚めがよくなって、
ベッドから跳ねるように起きる。

それからカーテンを開けて窓を開く。
冷たい空気を一息吸い込んで、
またすぐに窓を閉める。

もうすぐ、いつものように君から電話がくる。

そう考えたところで、
部屋の中に振動音が響き渡る。
マナーモードの携帯がテーブルを小刻みに叩く音。

ほら、やっぱりね。
なんて少し得意気になって
僕はいつものようにその電話を取った。

最初に君の言う言葉はわかっている。
いつもと同じ、おはよう、だ。
なんてことを思っていると案の定、君は言った。
「おはよう」
そしてきっと君も、僕の言う言葉はわかっている。
だからって僕はその予想を裏切ろうだなんて思わない。
いつもと同じようにただ応えるだけ。
「お疲れ様」



僕にはこれと言った夢がなかった。
父親はごく普通の会社員で、
毎日家族のために働いている彼の姿を見て育った僕は、
自分も将来会社員になるのだ、と漠然と思っていた。

そして大学卒業後、実際に僕は会社員になった。
どんなに難しいことでも夢を持ち続けて
必死に努力すればきっと実現する、
なんてプロスポーツ選手の言いそうな言葉が
絶対に正しいだなんて言うつもりもないけど、
僕にはそもそも夢自体がなかったから、
多くの人と同じように会社員になるのは
ある意味必然だったのかもしれないなんて思ったりもする。
でも僕はそんな自分自身に不満を抱くことはなかった。



そんな僕が変わったのは君と出逢ったおかげだと思う。
いや、より正しく表現するならば、
君が変えたのは僕自身ではなく「僕の生活」だった。



僕が君と親しくしたのは、別に同期入社だったからじゃない。
もちろんそれがきっかけではあったし、
理由の一つでもあるのだけど、一番の理由は別にある。
そう、あの日君が言った言葉が僕の心に奥に強く刻まれたからだ。

同期で飲みに行ったあの夏の日、
君は仕事で溜まった鬱憤を晴らすかのように
ただひたすらビールを飲んで、ひどく酔っていた。
上司に対しての愚痴、先輩の悪口は聞き苦しくて、
僕の酔いはすっかり醒めてしまっていた。
そんな中、高校時代の同級生のことを思い出した君が
ふともらしたあの言葉が
僕の中で今も消えずにはっきりと残っている。
「あいつ、今頃医学部の5年生だ。
俺だって……本当は……」
荒々しい口調で汚い言葉を発していた君が
急にか細い声でつぶやいたせいかな、
とにかくそれが君の本心だと言うことはすぐにわかった。

そして、夢もなくただなんとなく会社員になった僕は、
そんな夢を持ちながら会社員になった君にすごく惹かれたのだろうと思う。
何の因果か、同じ職場になってしまったけれど、
君は僕とはまるで違う人間だと思えた。



それから僕が君のことを誘うようになって
何度か飲みに行ったことがあったけれど、
二人で飲んでいる時の君は
あの日のような他人の悪口は一言も言わなかった。
僕は君と話すほど、君に強く惹かれていった。

「人間、やっぱり夢がなきゃ」
と言うのが、二人で話している時の君の口癖で、
僕はそれに返す言葉を見つけられなかった。
ただ黙って君の方を向いて、
自分の夢を語る君の様子を見ているだけだった。

「中学生の時に父親をガンで亡くしてさ、
それからどうしても医者になりたくて」
僕は君の話にただうなずいているだけ。
「母親も応援してくれてさ、
俺の学費のために昼夜問わず働き詰めで」
少しだけ声が弱々しくなっているのがわかった。
「それでも私立の医学部はとてもじゃないけど無理だから
国立の医学部目指して俺も必死に勉強したよ。
でも浪人できるほどの余裕なんてとてもなかったから、
医学部に出願したのは前期だけ」
君は半分うなだれたような格好で、それでも言葉を続けた。
「中期日程の薬学部まで失敗して、結局後期で工学部。
大学生活は結構楽しかったけど、
やっぱり何か物足りなかった気がするよ」

僕はこの話を、二人で飲みに行く度に聞いた気がする。
それだけ強い想いだったんだろうって思う。



そんな君がある時、僕に向かって言った。
「お前はなんか夢なかったの?」
それは、即答できる質問だった。
でも当時の僕は君に対して、
「ない」と答えてはいけないような気がしていた。

僕がしばらく黙り込んでいると君は、
「そっか、あまりよく覚えてないんだな」
と言った。それから少し寂しそうな表情を見せた後、
何か閃いたような仕草をして言葉を続けた。
「んじゃ今度、俺がお前に『夢』をやるよ」
意図のわかりかねる発言に
僕は怪訝そうな顔をしたのだろう。君はすぐに、
「そんな大したことじゃないから期待はするな」
と少し笑いを含んだような話し方で言った。



そして君は僕に『夢』をくれた。
その年の12月、僕の誕生日のことだ。
「おめでとう。これ、家に帰ったら開けてくれ」
君はそう言って僕にプレゼントをくれた。

その日、家に帰ってからその中を見て、
僕は思わず笑ってしまった。
入っていたのは宝クジが50枚。
確かにこれは『夢』かもな。
なんてことを思った覚えがある。



でも……それが当たるだなんて思いもしなかった。
ささやかな『夢』は3億円という途方もない現実に化けた。
僕はその大金を君に返そうと思ったけど、
君は、当たったのはお前だから、だなんて言って
決して受け取ろうとはしなかった。
仕方なく僕はそのお金を受け取ることにしたけど、
でもやっぱり全部は受け取れないと思って、
君にこんなことを言った。
「せめて一部でもいいから受け取れよ。
そしたら、会社辞めて医学部に入れるじゃん」
「いや、でも……」
と、君はそれすら断ろうとしたけれど、
僕の方にも譲る気は全くなかった。
「お前が夢を叶えるのを見たいんだ」
そうだ。それはきっと、
夢のなかった僕が初めて描いた夢。
その言葉で君は少し驚いたような目をした後、
「変わったな」
そう言って僕にあたたかい表情を見せた。
それからすぐに、
「そういうことなら喜んで受け取るよ」
と、言葉をつないだ。



その出来事の直後、君と僕は会社を辞めた。
君はもちろんすぐに受験勉強を始め、
僕はと言えば、何の苦労もなく手に入れた大金で
細々と生活をしていくことに決めた。
君が夢を叶えていく姿を見ながら、
それを応援しながら、静かに暮らそうと思った。



以来、僕は午前0時に起きるようになった。
1日の始まりであるこの時間に僕も1日を始めたい。
大した理由もないけど、そう思ったのだ。
それは夢とも言えない、ささやかな望み。



あれからもう5年ほどになるけれど、
君は立派に医学生として勉強をしていて、
僕は相変わらず静かに暮らしている。

図書館やファミレスで遅くまで勉強する君は
いつも午前0時の少し前に帰宅して、
それから数分後に僕は目を覚ます。
そしていつも電話で1時間ほど話す。

医学の話を聞かせてくれる君は、
確実に夢に近づいているんだとわかる。

この1時間は本当にあっという間に過ぎるけれど、
僕にとってはこの上のない程に幸福な時間だ。



最後に君の言う言葉はわかっている。
いつもと同じ、また明日な、だ。
なんてことを思っていると案の定、君は言った。
「また明日な」
そしてきっと君も、僕の言う言葉はわかっている。
だからって僕はその予想を裏切ろうだなんて思わない。
いつもと同じようにただ応えるだけ。
「おやすみ」



電話を切って、今の自分を省みる。

一足先に28になった君と同じように、
僕ももうすぐ28になる。
でもやっぱり僕の生き方は
君のそれとはあまりにもかけ離れていて、
あの日君が言った、
「変わったな」
という言葉の意味もまだ実感できずにいる。



24歳で夢を追い始めた君はその頃から、
「やっぱり夢がなきゃ」
と言わなくなっていった。
それはきっと君が満たされたからだろう、
と思っていたけれど、
もしかしたらそうじゃないのかもしれない、
と考えることもある。

「今からでも、きっと踏み出せる」

その一事を言葉ではなく
態度で教えてくれているような、
そんな風に思えてくるんだ。



決して急かされてるような感じではないけど、
僕も何かをしてみようという気にさせられる。
あの時、僕の生活を変えた君は今、
僕自身を変えようとしているのかもしれない。

やっぱり少しばかりの不安はあって、
僕もまだ間に合うのかな、
なんて問いを繰り返してしまうけど、
その問いの答えはもう僕の中にあるんだって思う。

変わるための第一歩が遅すぎやしないか、
なんて悩みをもつなんてことは
今までになかったことだから。

今の僕は前の僕とは違う。
そして、踏み出せばまた変わっていって、
きっと今まで見えてこなかったものも見えてくる。
君との会話は僕にそれを確信させてくれるんだ。



そう、僕が本当に変わるのはきっとこれから。
今度は……今度こそは自分自身で、
何かをつかみ取るために。

World With Words / Tomo