當年情

 もう深夜といっていい時間帯だったが、街の明かりは煌々と夜空を照らしていた。しかし、そんな賑わいから少し外れたあたりはそれ相応に薄暗く、生臭い、澱のようなこもった空気が立ちこめていた。
 そのあたりは、夜の街で羽を伸ばす男たちにとっては有名な場所だった。
 夜の闇に紛れて、自分たちの身体をわずかなはした金でひとときの間、思いのままにする客を待つ女たちがそっとたたずむ通り。目をこらせば、そんな女たちが何人も闇に紛れているのが分かるはずだ。
 今日二人目の客と一仕事終えて、ひとりになった瑞恩(ソイヤン)は秋になって急速に冷え込んだ深夜の空気に身をすくめた。露出度が高く、原色の派手な色遣いの薄手のワンピース。日本に来たばかりの頃、そんな衣装に身を包み派手なメイクを施した自分の姿に喜んだのはほんのつかの間のことだった。
 街をゆく、瑞恩と同じ年頃のこの国のまっとうな娘たちでそんな安っぽい姿をしている者など一人もいない。そんな格好をして安物の化粧品に香水で身を飾り立てているのは、生臭くタバコ臭い男たちの吐息と欲望を身体で受け止め、金に換えて生きることしかできない自分たちのような女たちくらいのものだ。
 とぼとぼと通りを外れの方に向かう。闇に紛れるようにひっそりと停められた濃紺のハイエースに近寄って運転席の窓を軽くノックした。窓が開いて、男が顔を出した。年は三十代半ばくらいだろうか。右頬に大きな傷があり、痩せこけた顔立ちに鋭い眼光が剣呑な印象を与える。男の名は柘植といった。先週、それまでここの見回りだった衣笠から替わったばかりだ。
 衣笠はえらそうな物言いの割に器量の小さい男で、都合が悪くなると怒鳴りつけたり、すぐに手を上げるところがあって女たちには嫌われていた。瑞恩も一度、つまらないことが原因で殴られたことがある。あまりにもそういうことがありすぎるため、覚醒剤をやっているらしい、という噂が女たちの間で流れていたが、ついに組からそのことを咎められて破門になったと聞いた。衣笠のあと、仕事を引き継いだ柘植は無口で陰気な印象の男だが、今のところ女たちからの評判はいいようだった。
 瑞恩の印象は『怖い』だった。粘着質なところのある衣笠に感じるのとは別の怖さだった。七年前、組のために殺人を犯し、先月まで刑務所にいたという柘植の経歴は関係なかった。柘植が持っている、研ぎ澄まされた刃のような雰囲気がどこか、怖い。だから、売り上げを渡すときも最低限のことしか喋らない。
 もっとも、瑞恩以上に柘植が喋らないので特にそれを意識する必要もなかったのだが。
「終わったのか」
 柘植の錆びた声に無言で頷いて、瑞恩は肩にかけたハンドバッグから今の客の売り上げを取り出した。瑞恩の取り分は三割。残りは、柘植の所属する川野組が巻き上げていく。
「今日は、どうだ」
 タバコに火を着けながら柘植が聞いた。瑞恩も合わせるようにハンドバッグから取り出したタバコに火を着け、一息吸った。
「今日は、ダメ。ほかのひともダメだとオモウ」
 それだけ答えて、瑞恩はしばらく無言で紫煙が宙に舞い消えていく様をぼんやりと眺めていた。カーステレオから流れる日本の古い流行歌が二人の間を漂うように消えていく。
「……アンタは、おとなしいんだな。それとも、今日は疲れてるのか」
 唐突に話しかけられた瑞恩は驚いて柘植の方をまじまじと見た。
「いや、ほかの子はもっと喋るのにアンタはあまり喋らないからさ。気に触ったなら勘弁してくれ」
 どう答えたものかと瑞恩は曖昧な笑顔を作って首を振った。
「いつ、こっちに来た」
「五年、前。十八のとき」
「福建か」
「広東。だいぶ、イナカのほう」
「そうか」
 紫煙を吐き出した柘植の視線がそっと伏せられた。柘植がいつもまとっている、どこか張りつめた空気がゆっくりと和らいだのを感じ取って、瑞恩のなかに安堵感が広がっていく。もう少しくらい喋ってもいいという気にさせられた。
「ツゲさんは、いくつ」
 しばらく無言で、柘植は伏せていた視線を瑞恩に戻した。
「今年三十二だ。もう、おっさんだな」
「えーっ、もう少しトシウエだと思った」
 意外に思って、瑞恩はころころと笑った。
「ごめんなさい。デモ、三十二歳ならまだワカイよ、お客さんにはもっとオジサンの人、たくさんいる」
 そんな瑞恩の慰めの言葉に、柘植は苦笑を浮かべた。
「年は、そうかもしれないが。オレ自身の問題、だな。七年あっちにいる間に、時代から取り残されちまった」
 柘植の独り言めいたつぶやきは、瑞恩には理解出来なかった。どう反応していいか分からず、瑞恩は柘植の方を見た。深い哀しみをたたえた眼差しに吸い込まれた。そのまま、じっと横顔を見つめていた。
 会話の流れとはかけ離れたアップテンポの曲が終わり、カーステレオの作動音が小さく響いてオートリバースした。
 しばらくして、流れ出した哀愁ただようメロディ。出だしを聞いただけで、何度も聴いた曲だとすぐに判った。日本に来てしばらくして、先輩娼婦にもらったテープに入っていた曲。こんなところでこの曲が流れ出したことに驚いて、柘植がいることも忘れて聞き入った。
 急逝した香港の俳優、レスリー・チャンの代表的な歌、”當年情”。瑞恩は見たことがないが、レスリー自身が出演した日本でも有名な映画の主題歌に使われたことがある。
『輕輕笑聲、在為我送温暖……』
 流れてくるレスリーの甘い歌声。気づいたとき、瑞恩はレスリーに合わせるように歌を口ずさんでいた。
「……輕輕説聲、漫長路快要走過……」
 不意に我に返った瑞恩は、柘植の存在を思い出して気恥ずかしさに赤面した。
「對唔住呀(ごめんなさいね)」
 反射的に広東語が出た。もごもごと口ごもるように言って、瑞恩はちろりと上目遣いで柘植を見た。
「……唔介意好(気にしなくてもいい)。……で、合ってたか」
 柘植の口から広東の言葉が飛び出したことに瑞恩は目を丸くして、どこか恥ずかしそうにも見える柘植の顔をまじまじと見た。
「……昔、オヤジ(組長)のお供で香港に行ったことがあってな。少しだけ広東語をかじったことがある。そうか、香港と近いんだったな」
 得心がいったというふうに柘植はつぶやいて少し、笑った。
「張國栄(レスリー・チャン)がスキなの?」
「いや、この曲だけだ。昔見た映画の、主題歌だった。歌ってる奴も主人公の弟役で出てた。歌詞の意味は少ししか分からないが、なんだか心にしみる歌だと思ってな。……この曲、好きなのか」
 瑞恩はかぶりを振って、二本目のタバコに火を着けた。
「広東にいたときは、そんなにスキじゃなかった。日本に来てから、聞いたとき、ワカラナイけど、すごく、スキになった。何回も何回も、聞いたよ」
 日本に来てから五年、日常生活には不自由ないくらい日本語ができるようになったが、こういった心情の微妙なニュアンスを伝えるには、瑞恩の日本語ではいささか役者不足だった。たどたどしい口調で言ってから、瑞恩は照れ隠しに笑った。
「広東には、いい思い出が……なかったのか」
 新しいタバコに火を着けながら、柘植が聞いた。
「黒孩子……ってワカル?」
「黒孩子? ……あぁ」
 頷いて、柘植は話を促すように顎を撫でた。
 黒孩子(ヘイハイズ)とは、中国の「一人っ子政策」の歪みが生んだ戸籍の存在しない子供たちのことだ。違反した者は罰金など様々な罰則があるため、第二子以降、出生しても当局に届け出されることなく育てられる子供のことをそう読んだ。
 瑞恩の場合は少し事情が違った。男子をほしがった両親に疎まれて、瑞恩と妹は、戸籍が与えられなかった。学校に行くこともできず、病気になっても放置されて、生まれつき身体の弱かった妹は三歳で死んだ。三人目にしてようやく待望の男の子が生まれた十三のとき、瑞恩は驚くほどわずかな金で広州の人身売買業者に売られた。そこで年をごまかすように言われ、日系企業の工場で朝から晩まで働かされた。十八のとき、付き合っていた五歳年上の男に騙されて、日本行きの不法入国船に乗せられ、日本に来た。そして、知らぬ間に課せられた莫大な借金のかたに今の仕事をさせられる羽目になった。いつまでも、どこまでいっても、瑞恩はなんの希望も持てない生き方をするしかなかった。
 そんなとき、先輩娼婦の一人からもらったテープにこの曲が入っていた。久しぶりに聞く、故郷の言葉で歌われた歌。美しかった過去の思い出に思いを馳せ、希望を持って生きていこうと訴えかける歌……。
 瑞恩には懐かしむような美しい過去はなかったが、そんな自分にも、希望が持てる日が来るのかも知れない。そう思えたとき、いつしかこみ上げた涙をこらえながら、何度も、巻き戻してこの歌を聞き続けた。
「……ゴメンナサイ、コンナ話、おもしろくないね」
 自分でも、なぜそこまで柘植に語ったのか分からなかった。逸らしていた視線を柘植に向けた。柘植は、真摯な眼差しで瑞恩をじっと見ていた。
「いや、そんなことはない。……こっちこそ、長々と話させて悪かった。あともうちょっとでアガリだな、もうすこし頑張ってくれ」
 腕時計を見ながら、柘植が言った。表情も口調も変わらないが、今までにない、温かい響きがあった。

***

 その日から、瑞恩は暇さえあれば、柘植と話すことが多くなっていた。特別に変わったことを話すわけではない。代わり映えのしない日常の中の他愛のない話。だが、いつの間にか、その時間が瑞恩にとって何よりもかけがえのない時間になっていたことに、瑞恩はまだ気づいていなかった。

 一週間ほどすぎたこの日も、世間は給料日前ということもあってか、人通りは少なかった。
「……景気はどお? 阿瑞」
 年かさの女性の冗談めかした声にゆっくりと振り返って、瑞恩は薄く微笑んだ。一回りほど年上で先輩格に当たる玉卿(ユッヒン)だった。同じ広東省の出身で何かと瑞恩を可愛がってくれる。
「玉姐、今日はダメ。まだひとりだけ。人通りもこの通りだし……」
 肩をすくめ、ぼやく瑞恩に玉卿はにんまり微笑んで温かい缶コーヒーをくれた。
「まぁ、一息入れなよ、あたしもさっきやっとふたり目の客捕まえたばっかさぁ。でも、今日はこれでアガリかもね……」
 タバコに火を着ける玉卿に礼を言って瑞恩はコーヒーをすすった。身体の芯が暖まる感覚にそっとため息をつく。
 今日はまだ、柘植の姿はなかった。いつもなら、女たちが客を取り出す夕暮れ時にはハイエースを通りの片隅に停め、じっと待っているはずだった。
「……今日、ツゲさん来てないね、玉姐」
「まだみたいだね、いつもあたしらより早いのに。……そういや阿瑞、最近、ツゲさんと仲いいよね」
 玉卿の言葉に瑞恩は慌ててかぶりを振った。
「えっ、ちがうよお……玉姐。確かに、よく喋るようになったけど、そんなんじゃないよ」
「ふうーん。最初は、あの人のこと怖いって言ってたの、誰だっけねぇ」
 くすりと笑ってからかうような口調でそう言う玉卿に、瑞恩は少しだけ赤面した。
「確かに、最初は、そうだったけど。話してみたら、そんなこともないって思えて。それだけ、それだけだよ」
 早口でそういって、瑞恩は缶コーヒーをすすった。そんな瑞恩に目で笑いかけた玉卿がさらにからかいかけたとき、肉食獣の咆吼にも似た野太い轟音が一条のまばゆい光を伴って、ふたりの方に近づいてきた。反射的に後ずさったふたりの目の前に一台の大型バイクが停車した。
 特徴的なふたつ眼のヘッドライトに大振りなカウルのついた黒いバイク。側面に、『GSX-R1100』とマーキングされている。跨っているのは古びた革のハーフコートを着た、白いフルフェイスヘルメットの男だった。
「すまない、遅くなった」
 特徴のある錆びた声と、ヘルメットのシールド越しに見える鋭い眼差しに覚えがあった。
「えっ……!」
「ツゲさん?!」
 ヘルメットを取ったのは、間違いなく柘植だった。キィをひねってエンジンを切ると、サイドスタンドを蹴り出してバイクから降りた。
「本部で打ち合わせがあって、遅くなった。車じゃ間に合いそうになかったんで、これで来た」
 目を丸くして固まっているふたりの視線に気づいて、柘植は軽く苦笑した。
「驚かせてすまない。……今日も、暇みたいだな」
「びっくりしたよー。デモ、すごいの乗ってるんだね、ツゲさん」
 泡を食った調子で玉卿が言い、ほっとした様子で瑞恩は深く息を吐き出した。
「わたしも、びっくりした……。デモ、すごいね、バイク」
「昔、乗ってたやつを引っ張り出してきただけだ。オレと同じで、おんぼろだ」
 口ではそう言いつつも、どこかはにかむような柘植の表情に瑞恩は無意識に見とれていた。いつも話をしているとき、どこか哀しい眼をしている柘植ばかり見ていたからだろうか。
 川野組では、柘植の扱いに困っているらしい、という噂を耳にしたことがある。柘植が刑務所にいる間に、先代の組長が引退して、組の方針ががらりと変わってしまったのだという。組のために罪を犯し、服役してきた柘植を待っていたのは、功労者の称号ではなく、時代遅れの厄介者という空気だった。”ほんとなら、柘植さんはこんなシノギ(仕事)やらされるような人じゃないんだ。先代の組長さんが病気で引退してなきゃ、今頃幹部としてバリバリやってても不思議じゃないくらいなんだけどねえ……”
 名前は知らないが、この近所の店でバーテンをしている男が客で来たときに、そんなことをこぼしていたという話を、他の女に聞いた。瑞恩が直接相手にしたことはなかったが、このあたりではよく見る顔だった。柘植とは以前から顔なじみらしく、何度か親しげに話しているのを見たことがあった。
 その話を聞いて初めて、柘植があの日漏らした言葉の意味が分かったように瑞恩は思った。柘植も自分と同じで、ずっと見えない何かに裏切られて、ここまで来てしまったのだと。
「ふふっ、ツゲさぁん、かっこよすぎて、瑞恩が見とれちゃってるよ、どうするぅ?」
 いたずらっぽい響きの玉卿のささやきと、軽くつつかれた脇腹に瑞恩は我に返った。
「えっ、あ、その……」
 瑞恩は赤面して口ごもり、柘植は苦笑いに似た微笑みを浮かべた。
「今度、後ろに乗っけてもらいなよぉ。あたしみたいなオバサンじゃダメだろうけど、阿瑞なら、ツゲさんも大喜びだよ」
「ちょ、何言ってるの、ダメだよ、そんなの、ツゲさんだって困るでしょ……」
 玉卿の能天気な言葉に瑞恩はさらに赤面し、慌てふためいて柘植と玉卿を交互に見た。
「……オレは、別にかまわんが。そうだな、明日は都合が悪いから、あさって仕事がはねてから、乗っけてやろうか」
 いつもの口調でさらりと言う柘植に、ためらっていた瑞恩は嬉しさを隠しきれない子供のように上目遣いで口を尖らせた。
「ホントウに……いいの?」

***

 翌々日。
 とっくに仕事が終わっている時間になっていたが、瑞恩はまだ帰ろうとしなかった。いつもハイエースが停められているあたりで、柘植の黒光りするマシンの傍らにひっそりと立ち、通りの向こうに何度か目をこらす。その脇には、玉卿が当の瑞恩よりも喜色満面の表情で寒そうに手のひらをこすり合わせていた。他の女たちはついさっき、瑞恩にからかいまじりの別れを告げて帰って行った。
「玉姐……寒いでしょ、もうすぐ来るだろうし、わたし一人で、大丈夫だから……」
「分かってるけどさぁ、やっぱ心配なんだよ、わたしとしては。ちゃんと二人を見送らないとねぇ」
 落ち着かない様子の瑞恩に、玉卿は相変わらずの能天気な答えを返して、快活に笑った。”心配って……。バイクの後ろに乗せてもらうだけだよ、玉姐”  内心で少し閉口しつつも、はしゃぐ玉卿の雰囲気に乗せられて、どことなく瑞恩の心もうきうきとしていた。知らずのうちに上気した頬が熱いのは、いつものような衣装の上から羽織っている冬物のジャケットのせいだけではなかった。
「で……どこに行くの?」
「どこって、ちょっと乗せてもらうだけだよ」
「何言ってんの、せっかく乗せてもらうんだから、海辺に夜景でも見にいっといでよぉ」
「ダメだよ、玉姐、ツゲさんだって、疲れてるんだから、そんな無理言っちゃ……」
「馬鹿ね、ツゲさんは別にいいって言ってたんだからさ、阿瑞は遠慮せずに行きたいとこに連れてってもらえばいいのっ」
 たしなめる口調の瑞恩の背中をどんと叩いて、玉卿は力説した。
「そんな……」
「アッ、ツゲさんきたよ、オーイッ」
 ハイテンションな玉卿に目を白黒させながら、瑞恩は玉卿が手を振る方角を見た。
「遅くなった。待たせて、すまない」
 ヘルメットを二つぶら下げて、ふらりと現れた柘植の口調も、どこかぎこちない気がするのは、気のせいだろうか。
 キィをオンにして、バイクのエンジンをかける。軽快なセルモーターの嘶きのあと、大排気量車特有の、空気を震わせるほどの排気音があたりを支配した。二、三度アクセルを煽ってアイドリングを安定させる。
「さて、じゃあ、行こうか」
 柘植は瑞恩に持ってきたジェットヘルを被らせてあごひもを締めると、自らもヘルメットを被った。グローブをはめ、バイクのタンデム・ステップを引き出してからシートに跨った。
「いいぞ、乗って」
「うん……」
 心持ち緊張気味の瑞恩は、ステップを足がかりにしておっかなびっくりでタンデム・シートに跨った。
 それを、微笑ましい表情で見守るようにしていた玉卿が柘植に声をかけた。
「ツゲさん、海辺に連れてってあげなよ、オダイバが夜景、キレイだってお客さんが言ってたよ」
「ちょ、ちょっと、玉姐……。ツゲさん、その辺を、ちょっと走るだけでいいよ……」
「お台場か。そう遠くないし、それもいいな」
 玉卿のお節介に泡を食った瑞恩だったが、鷹揚にかまえる柘植にあてられて口をつぐまざるを得なかった。
「だよねえ~、じゃ、気をつけて、行ってらっしゃい」
 変わらず能天気に明るく手を振る玉卿をあとにして、柘植はバイクをゆっくりと発進させた。瑞恩が振り返ると、親指を突き出してにっこりと笑う玉卿の姿が、どんどんと小さくなっていった。

***

「……ふぅ。全く世話が焼けるんだからねぇ……」
 ふたりを見送った玉卿は、ひとりごちて癖のある髪をかき上げると、駅の方に歩きかけた。
「よぉ」
 聞き覚えのある声に、何気なく振り返った玉卿は絶句して足を止めた。
 痩せこけ、眉の薄いひょろりとした風貌の男がそこに立っていた。柘植が来る前にここの見回りだった衣笠だった。くたびれた縦縞のスーツに、グレイのコートを羽織っている。
「あ、アンタ、キヌガサ、さん?!」
 血色のない土気色の顔とは対照的に、血走った目はどんよりと濁り、底知れぬ薄気味悪さが漂っている。もともとそんな雰囲気の男だったが、しばらく見ないうちに、以前にも増してやつれた顔がその薄気味悪さを増幅している。
「久しぶりだなぁ……。元気そうじゃねえか」
「まぁね。キヌガサさんこそ……」
「そりゃ嫌味かよ、玉卿さんよぉ」
 衣笠はなにが可笑しいのか一人声を立てて笑った。独特の癖のある笑い声を耳にして、わき起こる得体の知れない恐怖に玉卿の背中に冷たい汗が流れる。玉卿の勘のようなモノが警告を発していた。この男はまともじゃない、クスリで完全におかしくなっている。適当に言いつくろって、この場から離れなければ。
「……ところで、いまバイクで二ケツしてったの、後ろに乗ってた女ぁ、瑞恩だろ? 男は、誰だ?」
 急激に話題を切り替え、衣笠はにやりと笑った。不自然なまでに顔を近づけ、湿り気を帯びた手のひらで馴れ馴れしく玉卿の頬を撫で回す。全身の毛が逆立つ感覚に身がすくんで、動けなかった。
「そ、そんなこと、キヌガサさんに、関係、ナイじゃない」
 玉卿は気丈に対応したが、恐怖に口がこわばるのを隠しきれなかった。そのことを知ってか知らずか、衣笠は一人、笑い声をあげ続けた。
「隠すなよ、玉卿。ありゃあ、柘植だろ? オレのシノギを取り上げて破門に追い込みやがったクソ野郎のよ」
 自分勝手な理屈をわめき散らす衣笠の姿に、そんなの自業自得、アンタの逆恨みじゃないか、そう言いたい気持ちを抑えて玉卿は口をつぐんだ。
「どこ行ったんだよ、あいつら。二人でどこにしけ込んだんだ、あぁ? 人のシノギを取り上げただけじゃなく、組の売りもんに手をつけるってのは、どういう了見なんだ、あぁ!」
 一人で爆発した衣笠はそばにあったポリ製のゴミ箱を蹴飛ばした。大きな音を立て、中身をまき散らしてゴミ箱が転がっていく。衣笠は、間違いなく錯乱していた。
「そんなの……誤解だよ、そんなこと……」
 ようやくそれだけを口にした玉卿は、次の瞬間衣笠が懐から取り出し、自分に突きつけた物を見て、むなしく口をぱくぱくとさせたあと、その場にへたり込んだ。
「うるっせぇ!! あいつら、どこ行ったんだ? 言えよ、玉卿! 言え!」
 薄暗い中、黒光りする銃口が、玉卿の眼前に突きつけられていた。

***

 時間帯が時間帯だけに、道は空いていた。さして障害もなく、二十分ほど走ってふたりの乗ったGSX-R1100はお台場に着いた。
 もう少し早ければ、平日とはいえカップルでいっぱいだったに違いないこのあたりも、今は静まりかえってほとんど人通りはなかった。
 ゆるやかな風に乗ってかすかに薫る潮のにおいに、瑞恩は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「わぁ……」
 きらめく夜景を目の当たりにして、瑞恩は歓声を上げた。不夜城のごとくきらびやかに光るテレビ局の建物が遠くに見える。その反対側には、光で作られたようにも見えるレインボーブリッジが海面と合わせて二つの橋を架けていた。
「すごくキレイ、夢みたい」
「そうか。……バイク、怖くなかったか?」
 タバコに火を着けながら、柘植が聞いた。
「怖く、なかったよ。ツゲさん、ユックリ走ってくれたから」
 柘植のすぐそばで、エンジンの熱膨張が治まっていく金属音を小さく発しながら、ひっそりと佇むように見える黒いマシンをちらりと見て、瑞恩は柘植に視線を戻した。
「寒くないか」
「うん、大丈夫……」
 少し離れた位置から、まぶしそうに自分を見る柘植の視線を意識しながら、瑞恩は踊るようにゆったりと歩いてみせた。
「もう少し向こうに行けば、もっと海のそばまで行けるぞ」
「ほんとに?」
「ああ」
 紫煙を吐き出して柘植も瑞恩の後に続いた。ふたり並んで、ゆっくりと歩を進めていく。
「バイクの後ろ、乗ったことあるのか」
「広東にいたトキ、何回か。もっと、小さなバイクだったし、スゴク飛ばす人だったから、その時はコワかった」
「そうか。……オレも、一人のときはもっと飛ばすぞ」
 柘植はそっと微笑んだ。薄明かりの中に浮かぶその笑顔に、いつの間にか瑞恩は見とれていた。バイクの話をしているとき、柘植の表情は特に柔らかくなる。若い頃、バイクのレーサーを目指していたと一昨日の会話のあと、言っていた。”才能がなかったんだな。けど、バイクに乗ること自体は、やめられなかった。オヤジにはよく怒られたが。まぁ、そんなもんだ”
 自分の夢に挫折した柘植が、どういう経緯で川野組に入ったかは、瑞恩には分からなかったが、その後も組のために懸命に走ってきただろうことは、今の柘植を見ていれば、分かる。それなのにまたしても柘植は挫折しつつあった。身体をはって尽くしてきた川野組という存在に裏切られて。
 それでも、柘植は走り続けるのだろうか。その先にあるモノが敗北でしかなかったとしても、それでも、希望を得るために。
 見ていたい、と瑞恩は切に思った。柘植の姿を、ずっと。
 ……柘植は、自分のことをどう思っているのだろうか。柘植はたしかに優しいが、それは自分の境遇を知った柘植の同情ではないのだろうか。初めてまともに喋ったときから抱いている疑念がむくむくと頭をもたげる。
「ほら、こっちのほうが海がよく見えるだろ、瑞恩」
「エッ、あ、はい」
 自分の考えに没入していた瑞恩は柘植の声に現実世界に引き戻された。
「……!」
 地上を埋め尽くすような街の明かりのきらめきと対をなした黒曜石を敷き詰めたような夜の海が、眼前に広がって瑞恩の視神経を圧倒した。波は静かだったが、時折揺らめく水面に、周囲のきらめく光が反射して鈍く輝いていた。
「すごい、なんていっていいかわかんないくらい、キレイ。それに、コンナに海のそばまで来たの、ひさしぶり……」
 息を呑んで声を詰まらせる瑞恩に、柘植は満足そうに微笑んだ。
「喜んで頂けて光栄です、お嬢さん」
 おどけて柘植がそう言うと、瑞恩はくすくすと笑った。
 温かいなにかが、心の中に満たされていく、そんな不思議な感覚に包まれて瑞恩はそっと吐息を漏らした。故郷にいるときも、日本に来てからも、こんな暖かい気持ちになったことはほとんどなかった。
「ん? どうか、したか」
「えっ、ううん。違うの、ナンカ……すごく、楽しくって」
 自分の気持ちをうまく説明出来ずに瑞恩ははにかむように笑って、言った。
 柘植は不思議そうに、しかし穏やかな表情で瑞恩を見つめていた。
「そうか」
 いつもと同じ短い答え。だが、それがうれしかった。
「うまく、言えない。……スキな人とデートしてるみたい」
 うれしさが言わせた、素直なせりふ。だが、瑞恩は言ってから少しだけ後悔した。そんな気持ちの先にある結果は、いままでいつも辛い記憶しか生み出さなかった。
「瑞恩、オレは」
 柘植が自分の名を、呼んだ。優しく暖かみのある、声。
「オレは、お前とそのつもりだが。瑞恩が、いやでなければ」
 そう言って、柘植も困惑したような表情になった。慌てて、瑞恩はそれに答えた。
「いやじゃない、いやじゃないよ。ツゲさん……」
 早口でそれだけ言って、俯いた。何かの審判を待つように、口をつぐんだ。
 それ以上、言葉はない。
 だが、伝わってくるお互いの心を感じて、ふたりの刻が、止まった。
「……」
 何も言わないまま、柘植はそっと手を瑞恩に差し出した。顔を上げる。飛び込んできた柔らかな笑顔に、瑞恩もつられて微笑んだ。冷えそうになっていた心が再び暖かいもので満たされ、いっぱいになる。おずおずと、柘植の差し出した手のひらに、自分の手のひらを、重ねかけた。
 その時、だった。
「柘植ぇぇぇ!!」
 激しい絶叫が背後から聞こえた。驚いたふたりが振り返ると、猛然と黒い影が襲いかかってきた。黒く鈍く光る何かが、ふたりの視界に死の宣告のように、飛び込んできた。
 闇の中に禍々しく鈍い光を放つそれは、拳銃の銃口だった。
「!!」
 まばゆい閃光が二回、輝き、乾いた破裂音が耳をつんざく。柘植の目の前で、景色がスローモーションのようにゆっくりと動いていく。その柘植の眼前に飛び込んできたのは、弾丸ではなく、瑞恩だった。
「瑞恩っ!!」
 真っ赤な飛沫が、瑞恩の背中で花火のように飛び散った。苦痛に顔を歪ませて、瑞恩の身体が、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
「手前っ」
 柘植は、無我夢中で黒い影に飛び掛かった。再度、閃光が眼前で輝き、破裂音が耳を切り裂く。左肩と腹部に、熱い衝撃が走った。それでも、柘植の勢いは止まらなかった。身体全体でぶつかって、相手とともに地面の上に倒れ込んで転がった。衝撃で、黒光りする物体が鈍く重い音を立てて落ちた。中国製の、半自動式拳銃だった。柘植は、すぐさまそれを拾うと、血まみれの脇腹を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
 地面に倒れているのは、痩せこけ、土気色をした顔をした、ギラギラとした血走った目の男だった。柘植に体当たりされたときに当たったのか、鼻のあたりを真っ赤な血で染めている。そして、柘植はその男に見覚えがあった。
「オマエは……衣笠!?」
 荒々しく息を吐きながら、柘植は衣笠の名をつぶやいた。よろよろと、起きあがろうとする衣笠に銃口を突きつけた。
「動くな! なぜ……オレを、狙った」
 柘植の問いに、衣笠はすぐには答えず、あの独特の笑い声をたてて笑った。
「なにがおかしい、なにがおかしいんだ、衣笠!」
 激怒する柘植を尻目に衣笠は、挑発するかのようにへらへらと笑って、言った。
「……オマエが、悪いんだよ、柘植よぉ。シャブくらいのことでオレのシノギを、かっさらっていきやがって、あげくに売りもんの女にまで、手を出したんだからよ……オマエをやりゃあ、オヤジだって、オレを、もう一度、組に……」
 そんな狂人じみた理屈を最後まで喋らせるのは、柘植にとって何よりも耐え難いことだった。震える銃口が一点で止まり、閃光と、乾いた破裂音を何度も吐き出した。残弾がなくなり、遊底が解放状態になるまで、柘植は引き金を引き続けた。

***

「瑞恩、瑞恩!」
 血まみれの瑞恩の身体を抱き起こして、柘植は何度も瑞恩の名前を呼び続けた。元々白かった肌は、恐ろしいまでに青白く、生気がなくなっていた。瑞恩が倒れていたあたりには、信じられないくらいの、血だまりができていた。
「……ツ、ゲ、さん……」
 ゆっくりと、閉じていた眼を開けて、弱々しい声で瑞恩は柘植の名を、呼んだ。
「瑞恩! 今、救急車を呼ぶから、しっかりしろ、瑞恩……!」
「……ダメ、そんな……。広東に、帰らされ、ちゃう、ツゲ、さんの、そばに、いれなく、なるよ……。ヨバない、で……」
 弱々しく、かぶりを振ってそう言うと瑞恩は苦しそうに息を吐いた。
「何言ってんだ、今は、そんなこと、言ってる場合じゃ、ないだろ……」
「おネガイ……。ツゲ、さん、わたし大丈夫、だよ……。ほら、ミテ……」
 瑞恩は、信じられないことに柘植の身体にすがって、起きあがろうとした。しかし力が入らず、柘植の身体にもたれかかるように、抱きかかえられた。
「やめろ……瑞恩、動いちゃだめだ。寝てるんだ」
 ささやくように言う柘植の声が、いつしか涙声になっていた。
「ゴメン、なさい、ツゲさんも……ケガ、してる、のね」
「オレは、オレは大丈夫、これくらい、どってことない。どってことはないんだ……」
 柘植自身もけして軽傷ではなかったが、痛みをこらえて、優しくささやいた。その声に安心したように、瑞恩が弱々しい微笑みを浮かべた。
「よし……帰ろう、瑞恩。……みんなのとこに、帰ろう」
 柘植は瑞恩の力の入らなくなった身体を抱きかかえた。そして、自分のバイクの方に向かって、ゆっくりと歩き始めた。

***

 薄暗いあの通りが、なぜか今日は煌々とした明かりでいっぱいになっていた。
 いつもなら、闇に潜むように立っている玉卿や他の女たちが、光にあふれた通りのど真ん中で、にこやかに笑って、瑞恩に手を振っていた。着ている物も、いつものような安っぽい派手なだけの衣装ではなく、豪奢できらびやかな、美しい衣装で身をまとっていた。 ゆっくりと通りをパレードするように走っていく柘植のバイクのタンデム・シートで、瑞恩は、みんなに手を振り返した。口々に祝福の言葉を口にする仲間たち。だんだんと、スピードが上がって、みんなの姿が、遠くなって、光の中に、消えていく。
 風景は急に変わった。穏やかな田園地帯を切り裂くように走っている道を、ふたりのバイクは走り続けていた。むせかえるような草のにおい。ふるさとの空気に、少し似ていた。
 そして、瑞恩の視界が、真っ白にぼやけて消えていく。

 気づいたとき、風が、瑞恩の頬を、ゆっくりとくすぐるように撫でていた。痺れたようになっている身体は重く、指先から冷え切ってしまったような感覚が瑞恩の身体を支配していた。
 かすかな振動に、閉じていた眼を、ゆっくりと開ける。ぼやけた視界の中、街の明かりが勢いよく後方に流れていくのが目に入った。自分がもたれかかっている温かく大きな、背中。脇からまわした瑞恩の腕を、確かめるように温かい手のひらが時折触れるのが、わかった。瑞恩は再び眼を、閉じた。力が失われ、腕が垂れ下がりそうになった。
「瑞恩、瑞恩……!」
 朦朧とする意識の中、遠くの方から、柘植の声が聞こえる。自分はここにいる、そう言いたかったがうまく日本の言葉が、出てこなかった。
「輕輕……笑聲……在為我送温暖……」
 おぼつかない調子で、瑞恩は歌を口ずさんだ。自分と柘植をつなぐきっかけになった、あの、歌を。
「……瑞恩、しっかり、しろ、瑞恩……」
 柘植は必死で、瑞恩の名を、呼んだ。答えるように、かすかに聞こえてくる声が聞こえた。
「……今日……我、與……又試肩並肩、當年情、再度獻上新鮮……」
 瑞恩は歌を歌っていた。小さく、か細い声。柘植の眼から熱い何かが、こぼれた。
「瑞恩……もうすぐ、着くからな。瑞恩……」
 それ以上は、何も言えなかった。柘植は、ケガの激痛に歯を食いしばりながら、アクセルを開け続けた。

Take