優しい記憶

夢と呼べるほど具体的でもないから、
主張するほどの力強さなど全くない。
クサイ云い方をすれば、つまりそんな思惑や、
もやもやとした感情を巧く消化出来ないままに
それなりの穏やかさと少しばかりの反抗心を抱えていた。
クサイ言い方をすればつまりそんな思春期や。

そんな曖昧さばかりを抱えていたけれど、
多分幸せだった。

当事者という灯台の下は常に真っ暗闇で、
「幸せ」という言葉はいつでも過去形になってしまう。
自覚した途端に消えてしまうかのように
手中の残骸を眺めて虚しさを味わうばかりだ。
先人達が揃いも揃ってあれほど
「後悔先に立たず」と苦言しているのに。

理由も判らずに感激したり涙したり。
些細なことに逡巡しては、他人に馬鹿にされたり。
拠り所と言えるほど救われた憶えもなく、
そんな美しいものだとも思えない。
何もかもが本当に覚束無くて、もやもやとした心許無いもの。
そんな時代を纏めて言葉にしたら多分──



「青春だねぇ」


・・・何を馬鹿なことを。
図星を指されたような照れ臭さで逆ギレ。
お見通しだったか顔に出たのか、
顧みた僕の表情を窺ってから
彼は大袈裟なほどの素振りで肩を竦めて見せた。

「如何にも青春じゃないか。悩み多き年頃ってやつ?」

「悩みなんてな、
誰でもいつも沢山あるようで本当は丸で無いんだよ」

「詩人だねぇ。それこそが如何にも青春って感じ」

「何が『青春』だよ。馬鹿らしい」

僕はいい加減呆れてそっぽを向いた。
けれど彼は少しも悪びれた素振りを見せず
微笑を浮かべて悠々と窓外を眺めている。
僕もつられてそちらに視線を向けた。

満開近い桜は、既に幾数の花弁を吐き捨て始めている。
桜が散るのは、自らの重みに耐え切れないからだろうか。
その行為はバランスを保つ為なのだろうか。

世界中の何もかもはいつでも
バランスを保つ為に足掻き、固執し生きている。
それを思いださせる季節。それはとても残酷。


「春はなんか、残酷だよねぇ」

彼は快濶にそう言った。
声音とは裏腹なその哀愁と、
再度見透かされたような奇妙さに
僕は少しだけ躊躇する。

「自分こそ詩人じゃないか。
『青春真っ只中!』って口振りだったぞ」

「まぁ真っ只中だからな、実際」

「自覚があるとは御目出度いね」

「あるよ、自覚ならいつだってね。
自覚しているから青春は辛いのさ」

「何で青春してると辛いんだ?」

「感受性が豊かなことを青春と呼ぶから」

「何だよそれ」

「感受性が豊かだと優しさが残酷に思える」

「優しいと残酷だって?」

「そうだろ。優しさが身に染みれば染みるほど
それに値しない己の価値を突きつけられるようでさ」

「そう・・・かな」

「どうかな」

彼はいつもと変わらぬ調子で笑った。


僕は多分羨ましかった。
彼の才能が。彼の思想が。行動が。
いつでも羨ましかった。

けれど言えなかった。
多分これからも言えないし言ってどうなるとも思えない。
なのに何処かで察してくれているような自惚れもあって。

そう思わせる彼がとても好きだった。
ビジュアルから姿勢から声や表情まで。
ずっと、羨ましかった。

「でもまぁ、そんな青春も悪くないんじゃない」

「辛いのにか?」

「辛いからこそ何か憶えるんだろ」

「そう・・・かな」

「どうかな」



今考えれば、当時の僕の心境は何だか
恋する乙女のようで些か気味が悪い。
(「乙女」という言葉すらも微妙に気持ち悪い)
でも確かに一寸恋に似ていたかもしれない。
僕にジェンダーの呪縛がなかったら、
本当に恋と錯覚していただろうか。
そんなことを言ったら、彼はどんな顔をしただろう。
こんなことを考える時点で我ながらだいぶ気味が悪いけれど、
愛情も友情も同情も劣情も、所詮は紙一重なのだろう。


「──若かったのかな」

あの頃は。

そうかもしれない。
たった、それだけのことなのかもしれない。
彼なら何と言っただろうか。
今の僕を見たら、何と言うだろう。


僕はもう、忘れてしまった。

そんな青春も、そんな生き方も。
小さな過去の過ちも、足掻いて手に入れたかった未来も。
彼がどんな声で話すのかも、どんな仕草をするのかも。
忘れてしまった。

窓外の桜は矢張り散り始めていた。あの頃と同じ。
季節だけは変わらず巡るのだ、いつだって。


「春はなんか本当に残酷なんだな」

忘れてしまった僕に、
色んなことを思いださせる優しさをくれる。
いつの間にか全てを
放棄してしまった僕に突きつけるかのように。


「君のような生き方が羨ましかったんだ」

僕は矢張りあの時、彼にそう言えば良かったのだ。
そうすればきっと
僕の放棄してしまった
クサイ青春とかいうやつの素晴らしさを
彼は教えてくれたかもしれない。

今はもう二度と知ることの出来ない
彼の答えを聞けたかもしれない。

深海浮遊 / minimurin