灯台

僕は盲人一年生だ。

わき腹に一瞬の衝撃を受けて、助手席に座っていた僕はフロントガラスに顔から突っ込んだ。運転席では母親がなにやら喚いていた。顔にガラスが突き刺さったまま、後部座席に座る妹の方を振り向いた。

そこで目にしたものは混乱だった。妹は重力の楔から解き放たれて飛び上がっていた。彼女の頭が天井よりも固かったら、きっと上空に飛び出していただろう。マリオネットのように体を翻す妹と、泣き叫ぶ母親の横顔。それが僕の一年前に見た、この世で最後の光景だった。

街は海だ。そこにいる人は皆一様に楽しそうだし、音は押しては返して止む時はない。丁度、海がけして静まらないように。そして何より人々の憐憫や、嘲笑や、好奇の目が異臭を放つ海草のように僕の体にまとわりつくのだ。僕は白杖でその海を割って進む。

視覚に拒絶された僕は聴覚に頼るしかなかった。盲目となってから僕の耳はみるみる敏感になっていった。しかし、僕の死んだ両目を心配してくれる人々はいるものの、聴覚は生きているという当たり前のことに気付く人はほとんどいなかった。健常者にとって不具者とは全ての器官を喪失した者の総称であった。盲人は音をも喪失していなければならなかった。

電車の中で席を譲ってくれた中年と思われる女性がいた。彼女が側で携帯電話を通して話す声の大きさのあまり、僕は駅名を告げるアナウンスを聞き取れなかった。

健常者が両手で水をかき、両足を上下させながら軽やかに、楽しそうに泳ぐ。そのかたわらで、水かきを失った盲人は彼らの水飛沫をざんぶりと被って必死で足をバタつかせているのだ。そうでもしなければ僕は街に溺れてしまうから。しかし、傲慢な多数である健常者は高波を立て、僕を追い抜いていく。結果、街は騒音と嬌声に溢れていた。それは僕の懸命なバタ足を一呑みにする音の津波だった。

 音を楽しむと書いて、音楽と読む。楽しむ?そんなことが出来るのは音のありがたみをうっすらとしか感じない健常者だけだ。彼らはなまじ目が見えるから鈍感なのだ。彼らにとって音はあくまで補足であり、嗜好品だった。目に見えるものを補い、時に感情を起伏させる遊び道具に過ぎなかった。

 僕は音の世界に生きていた。音は暗闇の中、僕を導く唯一の光明だった。楽しむというには余りに重要すぎた。僕にとって音楽はその“見えない光”に対する冒涜に他ならなかった。もっと聞くべきものはあるのだった。目が見えなくなって以来、僕は音楽を憎んでいた。

 ―その声は確かに女性だった。そして女性には不釣合いな声だった。野太く、しゃがれた、年老いたカラスの鳴き声のようだった。しかし、その曲はどこかで聞いたことがあった。

街中で大声を張り挙げ、自己顕示欲の塊を口から吐き出すストリートミュージシャンを軽蔑していた僕が、その女性の前で何故立ち止まってしまったのかといえば、その声色に滑稽さを感じたからだった。僕の隣を通る人々も彼女の醜い歌声に一瞬足を止め、クスクスといった小さな笑いを残して去っていくのだった。

僕は立ち止まってその声をじっくりと聞いた。そうして彼女に冷笑を浴びせた。音楽を嘲笑する!僕にとってこれ以上の復讐はなかったのだ。

しかし、女性は物怖じすることなく歌いきった。伴奏もない中、喉がねじ切れそうな声を絞り出していた。きっと彼女の顔も真っ赤になっていたことだろう。

「レイチャールズの『Georgia On My Mind』でした」
そう彼女は言った。先ほどの歌声が嘘のように優しく美しい声だった。

邦題「我が心のジョージア」 盲目のソウルシンガーであるレイチャールズの代表曲で、日本でも有名な曲だった。僕は数ヶ月前、彼が死んだとニュースになっていたのを思い出した。

彼女は僕の軽蔑などものの数にしなかった。曲中のジョージアとは正反対の、無機質な街中で嘲笑を背にしたまま、歌い続けた。

自分の歌がどう思われているのか、それすら彼女は気にしなかった。評価も他人の関心も必要としなかった。彼女は歌うこと、それ自体を望んだ。僕とレイチャールズの肉体は盲目だった。そうして、彼女の精神もまた盲目だった。

僕は気付いた。嘲笑は逆効果だったのだ、と。彼女にとって嘲笑はそれだけレイチャールズに近づいたという、勲章に他ならなかったのだから。

僕はいまだに、音楽が美しいものとは思わない。しかし、歌う彼女は美しい。
「レイチャールズの『Georgia On My Mind』でした」

盲目の純粋が、盲人の目を開いた。

ひまつぶし人生 / ダーヨシ