草千里

「わたしって、前世は多分、馬だったのと思うの。」
彼女はいつもこう言った。
「だって、草原を駆け回るのが大好きだし、お肉より野菜のほうが好きだもの。
 それにわたし、臆病でしょ?」

僕たちは、彼女が大学を卒業するのと同時に籍を入れた。
彼女が強く希望したのだ。理由は
「子供の授業参観に行くでしょ?そのときに、”○○ちゃんのママって若いね”って言われたいの」
だそうだ。

生憎、子供には恵まれなかった。
僕にはどうやら、その能力がなかったようだ…

あるとき、買い物に行った先のデパートで、迷子の子供を見かけた。
彼女はすぐに、大泣きしている子供に寄っていって、一緒に母親を探してやった。

見つかった母親に手を引かれていく子供を見る、彼女の寂しそうな横顔に
「ごめんな…」
と呟いたのを、わざと聞こえない振りをして
「わたし、この帽子が欲しい。真っ白でとっても素敵でしょ?似合うかしら?」
と笑った。

彼女には、ほんとうに申し訳ないことをした。
僕なんかじゃなく、もっと他の男と結婚していれば、今頃は子供にも恵まれて
幸せな家庭を築いていたかもしれない。


それだけでもう十分すぎるほど不幸せなのに、神様は彼女に更に追い討ちをかけた。


彼女は、白血病になった。


もともと華奢な身体が、日を追うごとに弱々しくなっていった。
薬の影響で、夜もろくに眠れず、自慢の髪も抜け落ちてしまった。
それでも彼女は、僕が来ると笑顔で迎えて、今日あった出来事楽しそうに話してくれた。

そう、最期のときさえも彼女は笑顔だった。

彼女が逝ってしまったあと、机の中から1通の手紙を見つけた。

僕宛の手紙だった。



あなたへ

あなたが今この手紙を見ているということは、わたしはもうこの世にはいないでしょう。

あなたは、子供が出来ないということを、いつも気にしていたけれど
わたしはそれでも、とても幸せでした。

毎日、あなたのために掃除をして、あなたのためにご飯を作って
あなたと一緒にいられることが、わたしはとても幸せでした。

あなたの横で眠れることが、わたしはとても幸せでした。

わたしの口から、ちゃんと伝えられなかったけれど、わたしはこんなにも幸せだったのです。

あなたは、わたしと結婚をして、幸せだった?
もしかしたら、他の女性と結婚したほうが、幸せになれたんじゃないかしら…


本当は、もっともっとあなたと一緒にいたかった。
もっともっとあなたにご飯を作ってあげたかった。
もっともっとあなたと話をしていたかった。
もっともっとあなたと色々な所へ行ってみたかった。

こんな妻でごめんなさい。

でもどうか悲しまないで…
ちょっとだけ先に行くだけ。
先に行って、あなたのために、掃除をしてご飯を作って待ってるだけ。

本当に今までありがとう。
あなたを心から愛していました。



                                 りかこより




それまで我慢していた涙がぽろぽろと流れて止まらなくなった。
彼女は本当に優しい女(ひと)だった。

お葬式も済んで、彼女は白い粉になった。

薬のせいで、ほとんど残らなかったけれど、白い粉を少しだけ瓶に詰めて
ここにやってきた。

彼女が生前行きたがっていた、唯一の場所。

雨が降って、緑が更に鮮やかに見える。
広い草原の中に、雨に濡れながら沢山の馬が草を食んでいる。

彼女はこの景色をとても見たがっていた。


『もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう』


三好達治の詩が頭に浮んだ。
そういえば、この詩を教えてくれたのも彼女だった。

風が吹いてきたのを見計らって、軽くて白い粉になってしまった彼女を
手に乗せた。


さらさらと風に乗って飛んでいく彼女を、馬たちが見つめていた。

Nessun Dorma / 翠