豊後みかん
『わけもなく悲しかった。
僕はこの世に必要のないものだと思った。
それが
わけもなく悲しかった。』
その日は朝から突然降り出した雨で、大勢の人が街中を走っていた。
僕は特にすることもなく、駅の階段から世の中を眺めていた。
此処にはなんて大勢の「ニンゲン」がいるんだろう。心から感心した。よくもまぁこんなに集まったものだ、まったく・・・。
それにしてもよく降る。
腹のたしにもならないのに毎年毎年タイフウとやらがやってきて
街中を引っ掻き回してはどっかに行ってしまうんだ。
「どうしたの?一人ぼっちなの?」
ぼんやり前を眺めていた僕に背後から話し掛けてきた。
「こんなところにいると、後ろからくる人の邪魔だよ?あそこのベンチに行かない?」
ふりむくと若い女が笑って立っていた。
雨の駅で、オレンジのコートを着ていた。色のない世界にいきなり色がついた、そんな感じで、そこにいた。なんだか不思議な感じがした。
僕はこれでも男だし、案外悪い奴って感じでもないので、付き合うことにした。正直、こいつは嫌いではなかったのだ。なんとなく。
鮮やかで、“人生変わりそう”そんな気さえした。
このぶしつけな女は朋というらしい。
屈託のない顔で笑いながら、自己紹介をした。
それから、くだらない話をはじめた。
「今日は仕事がお休みで、ぼんやりあそこの歩道橋から下を眺めていたの。そしたらね、ここにいる君が見えたんだ。しばらく見てたんだけど。遠くてよく分からなかったんだけど・・・目が、君の目があたしと同じものを見ているように思えて。つい、声かけちゃったんだ。びっくりさせちゃったね、ごめんね。」
僕はそんなにびっくりしたわけでもなかったが、こいつが僕をずいぶん前からそんな風にみていたとは思わなかった。けれど、特に言うほどのことでもないので黙って前を見ていた。朋はそんな僕におかまいなしに、とにかく楽しそうにただ・・ぽつりぽつりと自分の話をした。
「うちの父さんね、あんまり働かないの。母さんがまだあたしが小さい頃に死んじゃったんだけど・・・その看病にもあまり行かないで、お酒ばっかり飲んでて。んでね、夜になるといつも大声で怒るんだ。でも、あたしのたった一人の父さんだしね、あたしががんばらなくちゃって思って。」
地面を見ながら、楽しそうに他人事のように話しつづけた。
今考えるからではなくて、僕にはそう見えた。
「仕事はね、病院の事務をしてるの。あたし、特にたいした資格もないし、パソコンもそんなに得意なわけでもないし。いつも、怒られてばっかりよ。あはは。でもね、時々この仕事しててよかったなぁ~って思えることもあるんだよ。長いこと同じところに働いてれば、患者さんが顔も覚えてくれてるし。」
本当に楽しいのか?そう聞き返そうかと思った。笑っているのか、泣きたいのかわからないような顔をしていたからだ。
・・・でも、口にする一歩手前でやめた。こんなところで女にビービー泣かれても困る。泣くなら他の所で勝手に泣いてくれ、だ。僕には全く関係のないことだ。
じっと、朋の方を見ていた僕に気がついて、朋は笑った。
「心配しなくても大丈夫だよ。これでも辛抱強い方なんだから~」
・・・もう2時間くらい経ったのだろうか、いや30分くらいか?
朋はもう話さなくなっていた。
二人でただ、ベンチに並んで座って、黙っていた。
雨にぬれながら、座っていた。
正直、少なくとも雨にぬれない違う場所に行きたかった。
朋に話す気配がなくなってしばらくしてから、僕は腰を上げることにした。
「どこに行くの?」
答える義務はない。そもそも初めから、暇だから付き合ってみただけなのだ。なにもこいつのために濡れねずみになるつもりはなかった。
もういいだろう?
「あっ。そっか。雨に濡れてびしょびしょだモンね。コインランドリーで乾かしてもいいかな。一緒に行こうよ。おなかも空いたでしょ?コンビニでなんか買って食べよっか。」
めし?う~ん・・・・・
まぁ、付き合ってやるか。
「それか、うちにくる?うちここから近いし。」
他人の家は嫌いだ。
「そっか。じゃ~4丁目のコインランドリーまで歩こうね。その途中に確か、コンビニも合ったよね。」
そうやって、僕と朋は歩き出した。大した目的もなしに。
「ね。なに食べよっかぁ。まぁ、コンビニだから、大したものはないけどね。あははは。」
しかしだ。この女は休日にしかもこんな雨の日の真昼間に、こんなところで何をしてるんだ、一体。この様子じゃ、男はいないんだろうがな。くっくっく。
「あ~、なにぃ?その人を値踏みするような目は~?どうせ“色気ね~な~、こいつ。“とか考えてんでしょう。」
うっ・・するどい。
「これでもねぇ、結構もててるんだからね~だ。・・あっそうだ!まだ名前聞いてなかったよね。なんて名前なの?」
名前?なんだそりゃ。
「なんでもいっかぁ・・・あたしが決めてあげる。男の子だからぁ・・・太一とかは?それとも、明とか・・・」
なんだわからないが、朋は一所懸命考えているようだ。
ふと、立ち止まってと自分の腕をじ~っとみている。どうしたんだ?痛いのか?
「い~の。思いついたよっ!君の名前はみかんね。」
ん?うまいのかそれは?
「かわいいでしょ。気に入った?苗字はもちろん豊後~。クスクス」
なんだか解らないが、喜んでいる様子なのでよしとしよう。それよりも腹が減っていた。
「あっ、みかん。あそこだよ、コンビニっ。」
彼女は僕を優しく抱き上げ、かけだした。