2003.12.30

羽田から石見に飛ぶ時は、天候が悪くならない様、いつも祈る。
小さいA320は、ジャンボ機と違って揺れが激しくい。
雨風が強い日は、手すりをぎゅっと握り、体中を強ばらせて、
2時間が過ぎるのを待つ。

昔、夜行列車に乗って何時間もかけて帰っていた事を思えば、
確かに島根に行くのには便利になった。
だけど飛行機嫌いな私には、それほどでもない。
あの、上昇し終わって機体を水平に戻す時の感覚。
あれを思い出すだけで震えが来る。
それでも、今回は行かなくてはならない。
祖父が死んだのだ。

大分前から、祖父は糖尿病を煩っていた。
何回も入退院を繰り返し、調子が良くないのはその所為だと、発見が遅れた。
気付いた時には、後半年の命、そう宣言された。
母は、私にそう告げた時、目を赤くして「一度会いに行こう」と言った。
私は忙しかった仕事に無理矢理休みを入れて、
まだ寒さの厳しい2月、島根に行った。
実に4年振りの事だった。

小さい空港、山ばかりの景色、変わったのは人の年齢だけ。
案内をしてくれた大叔父も年を取っていた。
町に一つしかない病院の一室に、祖父は居た。
「ああ、お前か、よう来たよう来た」と迎えてくれる顔。
これが、あの祖父だろうか。
山に毎日登り、元気に山葵を作っていた筈の顔。
窶れて、痩けて、直視する事が出来なかった。
視線を逸らしたまま曖昧に微笑み、
「寝込んで、鯉の夢を見たんだって?」と当たり障りない会話をした。

「品評会に出せる程、いい鯉じゃったんだが、わしは捕まえられんかった。
先生が捕まえてくれるていうて、おおけ網を持ってのう、
こう、追っ掛けてくれたんじゃ」
祖父は楽しそうに、意識を失っていた2日間の夢を話してくれた。

母は病院に泊まり込む事になり、
私は一人、祖母の待つ家に帰る事になった。
祖父の居なくなった家で、祖母は寂しそうに、
私の姿が見えると嬉しそうに、
「よう来たね、よう来んさった」
と曲がった背を一生懸命伸ばして、私の背中を撫でてくれた。
祖母も、祖父が癌だと知らされていなかった。
やはり糖尿が重くなって、入院したのだと、
「じいさまは昔から無理をする人じゃけぇ、ちゃんとお医者様の言う事聞いて、
早く良くなって貰わなにゃねぇ」
と笑っていた。
そんな祖母の前でも、やはり愛想笑いを浮かべるしかなくて、
祖母が眠りにつくまで、ずっと微笑み続けた。
「あんたはばぁちゃんに似て、いつもニコニコしてるけぇ、人に優しくされるよ。
そうやって得た人が、ばぁちゃんの一番の宝物なの。」
寝言の様に言った、祖母の言葉。
私はちゃんと笑えていただろうか。そう考えながら眠りについた。

翌日、祖母が薬を探してごそごそしている音で目覚めた。
大叔父に乗っけて貰って、町へ降りる。
お祖母ちゃんが震える手で一生懸命掘った山葵の茎を、
農協で買って貰って、病院へ行った。
祖父が、その領収書を見て、祖母を責めた。
「なんでこないしかやらんとね」と。
祖父の気持ちも凄くよく判る。
祖父は祖父で気が揉めるのだろう。
でも、白内障と、パーキンソン病を患ってる祖母には、
それが精一杯なんだ、と。大叔父が諫めた。
そこに、祖父が町議会の議長をやっていた時の町長が来て、
糖尿には冬虫夏草がいいだとか、養命酒がいいだとか、勝手な事を話して帰っていった。
「今までずっと働き続けてきたんだから、これからは旅行もしてみんさい」とも言った。
泣きたくて泣きたくて、悔しくて仕方がなかった。
糖尿じゃない、癌なんだ。
私の祖父の「これから」はもう、半年もない。
何も知らないという事は、こんなにも無邪気に人の心を傷付けるのだと、
町長には悪いけれど、憎らしくて仕方がなかった。
だけど、告知されていない祖父の前では平然としているしかなかった。
仕事の関係で2日しか休みを取れなかった私と母は、
「思ったよりも元気そうで良かった、帰るね」
と言うしかなく、未練を残したまま帰路についた。

夏にもう一度、母が「帰らない?」と聞いてきた時、
私はもう祖父のあの窶れた顔を直視出来ない、と母に伝えた。
私がちょうどその時期、あまり精神的に安定していなかったのもあり、
母は一人で島根に飛んだ。

それからしばらく、電話が鳴るたびに、
祖父の状態が悪くなったのではないか、と怯えて暮らした。
半年と言われた祖父の命、
夏がその期限だった。

祖父が危篤だ、と連絡が入ったのは12月下旬だった。
母が一人で島根に帰り、私と父と弟は東京で待機した。
12月30日。
雪が降りそうな、本当に寒い日。
「おじいちゃん亡くなったからね、来てあげて」
そう弱々しく告げた母の声。
最終便に乗り込んで、私は再び島根に向かった。
その時にはまだ、祖父が死んだという事実を受け入れられなかった。
まるでテレビの中の出来事の様に。

通夜を終えた田舎の家に、着いたのは夜の8時を回っていた。
親戚はほとんど残らず駆けつけてきていて、
大きな田舎の家でも、居間は座る場所がない程だった。
それぞれが故人を偲んで思い出話をしたり、
祖父がこの田舎の町の為にどれだけ頑張ったか、語り合った。
春の叙勲で瑞宝章を授与された事。3回も町議に当選した事。
やがて、ぽつりと、大叔父が、言った。
「出雲の方だったら、一段上の賞を貰えたじゃろなぁ」
そのつぶやきに、酒をついでいた一同の手が、ぴたりと止まった。
島根では、益田や浜田の出身であるよりも、
出雲地方出身の人の方が、より出世出来る。
祖父は小さな町の議長で終わる人でなかったと、誰もが思っていた。
「でも親爺は、ようやったで」
お調子者の叔父が笑って言った。
「よくやったわい」
そう言いながら、短くなった線香に火を付けて、手を合わせ頭を垂れた。
叔父にならって、皆が目を伏せ、そして思い思いの格好で、一夜を明かした。

翌日の告別式は、公民館を借りて行われた。
100人以上の人が駆けつけて、祖父の死を悼んでくれた。
棺の前で線香をあげても、経を聞いている時も、
祖父が死んだ、なんて実感が沸かなかった。
他の人が、目でやりなさいと誘うから、ぎこちなく手を合わせた。
神も仏も存在しない、人間の作ったものだと思っていたから
ちっとも有り難くなかった。

葬儀の最後に、ご親族の方はお花を手向けてあげて下さい、
と言われ、棺を開けて初めて祖父の遺体を見た時、
急に涙が溢れてきて止まらなくなった。
やっぱり、以前よりもさらにやつれていた。小さくなっていた。

祖父の小さな顔が花に埋もれていく内に、嗚咽がこらえきれなくなって
沢山参列者の方が居る中で、声を押し殺して泣いた。
もう祖父は戻ってこない。
優しい、ごつごつしたあの手で私の頭をなでながら笑う事もない。
じぃちゃん、じぃちゃん、
それ以上かける言葉が出てこなかった。
鬱になってから久し振りに、止めどなく泣き続けた。

私は、飛行機が嫌いだった。
そう言い訳をして、私は島根に行くのを面倒くさがった。
私立の四大に入れて貰いながら、六年間も留年し続けて、
結局退学するしかなかった自分が不甲斐なかった。
鬱になって就職も出来ず、親に扶養されている自分が恥ずかしくて、
国立大卒ばかりの優秀な親戚と、顔を合わせたくなかった。
そんなちっぽけなプライドで、私は祖父との時間を絶ってしまった。
なんて愚かだったんだろう。なんて卑怯だったのだろう。
祖父が死ぬなんて、考えもしなかった。ずっと、あの笑顔で迎えてくれるのだと。

後悔の中で東京へと飛ぶ飛行機は、雨に打たれて随分と揺れた。
まるで私の代わりの様に、荒れ狂う空。
葬儀の時に花をむしっている時についた茎の緑をぬぐったハンカチを、
ぎゅっと握りしめて生きようと願った。
祖父と一緒に燃えてしまった花の残り。
そのハンカチをポケットの中で握りしめて、私はその揺れに耐えた。

monochrome / tomoakira