lake to live

 降りた駅の名を、私はしっかり見なかった。

 景色が綺麗だったから。
 湖がよく見えたから。
 それだけの理由で、私は駅を降りた。

 小さな公園らしきところを通り抜ける。
 平日の昼間、子どもが遊ぶ姿すら見かけない。
 絵画の中に迷い込んだような、
 感覚。
 そこに鼓動を与えたのは、

 風に乗せられた水の匂い。


 小さな水路の上に架かった頼りない橋を渡ると、私は、琵琶湖にいた。


 スニーカーが砂を圧しつける。
 ふわり、ふわりとなびくやわらかな風に、この国で一番大きな湖が、ゆったりと波を立てた。

 私は、小さな肩掛けカバンから、スケッチブックを一冊と、ボールペンを一本、取り出して、レジャーシートを敷くと、腰を下ろして深呼吸をした。

 湿った水の匂い。


 まなざしの向こうに霞む山々。
 海と見間違うような、空のライン。

 まぶたを閉じて、風と、波と、木々のざわめきに耳を澄ました。


 絵を描く時には、視覚に頼らないで。
 聴覚と、嗅覚と、肌に沁みこむ空気を頼りにして。



 やがて、静かに、琵琶湖は私の胎内に降り立った。


  さら さら 

   サラ さら


 緑色した 藻の 奥

 巨大な 湖底遺跡

 動

 悠久

 静


 生


 脈打って
 子宮の奥からのぼりたち
 瞼の裏に、ゆっくりと

 焼 き つ か れ て  ゆく

 ──image


   さら サラ

  さら さら


 じかん


    サラ さら

  さら サラ


 ──痛い。

 一瞬にして私を切り裂いたのはひとつの音だった。


 イメージの世界から瞳孔を見開いた時、静かだった波打ち際がざわついていることに気がついた。
 湖の中腹で水面を切り裂く水上スキーが光の速さで目に届いた。
 静かな町に、列車のリズムにすら乗れないままで、エンジン音は轟いた。


 湖底遺跡
 緑色の藻
 霞む山々
 空のライン


 全て一瞬で消えた。


 目を細めて、水上スキーをする人を見た。
 私と同年代だと思われる、青年。
 水飛沫が彼のまぶしい笑顔に被った。



 切り裂かれては、白いあぶくを残して静かに戻る、湖。
 今 いのちを落とした微生物。


 水上スキーの青年は、体のあちこちにとびはねる水飛沫を全身で受け入れていた。
 愛しいものを、受け入れるのと同じように。



 私の五臓六腑が淡水の涙を流した。



 湖底遺跡
 緑色の藻
 霞む山々
 空のライン
 切り裂かれては、白いあぶくを残して静かに戻る、湖。
 今 いのちを落とした微生物。



 ただ、愛し方が違うだけ。

つな缶。 / とびたつな