親指

 彼女は、握り拳をぼくの目の前にぐっと突き出し、親指を一本立てた。ちょうど「グー!」のサインのように。
 それを見ただけでは、ぼくは彼女が何を言いたいのかさっぱりわからなかったのだけれど・・・。

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 高校を卒業してすぐに、就職のため大阪に出てきた。右も左もわからない大都会。こんなに大勢の人が、ぶつかり合うでもなくきちんと距離感を保ってすいすいと移動できていることが信じられなかった。
  入社して最初の日、他の新入社員と一緒に、歓迎会に招かれた。酒の席も生まれて初めてだ。何人かずつ課長に呼ばれて、いろいろ質問されたり酒を勧められたりする。やがてぼくにもお声がかかり、グラスとビール瓶を持って駆けつけた。
「おい、お前の出身どこや? こっち(大阪)か?」
課長からいきなりこう聞かれたが、別にだからどうというわけでもなく「石川です」と即答した。すると課長は怪訝な表情を隠そうともせずに「どこやそれ?」を繰り返したのだ。
「えー、石川ってどこにあんねんな? それ日本か?」
ぼくは呆気にとられてしまった。そんなことも知らないで、課長がつとまるのか?
「おい、そこどこやねんな一体。おーい、誰か知っとうか?」
あまりといえばあまりな言い草に怒りともつかない気持ちがわいてきて、何も言えないでいた。するとどこかから
「課長そんなことも知らないんすか、あっちですよ、東北の方」
同期入社の誰かが答えている。違う、違う、全然違う。そいつの言っていることはでたらめだ。
「なんや東北のモンか。ほなあれやな、ねたねたしてしっかりしとんねや!」
違うって・・・
「せやけどあれやど、東北のズーズー弁で電話したらあかんど! 客が『じぶん何いうとんねん!』いうて怒られるど! だはっは!」
本当の東北出身の人に失礼極まりない。ぼくはどんどん中からわいてくる感情に流されそうになるのを必死で堪えた。しばらくは誰とも話そうとはしなかった。そうしないと何を口走るかわからなかったから。

 今にして思えば課長も酒が入って相当酔っぱらっていたんだろうし、おそらく悪気はなかったんだろうと思う。けどぼくはまだ未成年で、生まれて初めての大都会に、自分の居場所を見つけてはいなかった。生まれ育った場所は、ぼくにとって大きな拠り所だったのだ。なのにそれを茶化されたことで、ぼくは自分自身の拠り所を、自分そのものを傷つけられてしまった。ぼくもそれだけ若かったが、若い心は柔らかく傷を受けやすい。そして往々にして、傷つけた側には罪の意識などまるでないのだ。この日の課長のように。そのことがまた柔らかい心をえぐるのだ。

 やがてぼくはその会社を辞めた。いくつかの職を転々としたけれど、どこにいっても長続きはしなかった。また茶化されるんではないか・・・そればかりが怖かった。あの美しい山並みを、どこまでも広い空を、澄み切った空気を、水を否定するんだ。わかろうともしないんだ。こんな汚れた街に住んでいるくせに・・・なのにこの街を離れようとはしなかったぼくはある意味で、もっとも唾棄すべき田舎者だった。都会にしがみついて夢だけを見ていながら、ぼく自身が都会を裏切って、利用しているだけだった。どんなに傷ついた心を持つ者にも、この街はやさしい。やさしすぎて、時々寂しさを感じてしまうくらいに。

 やがてぼくもハタチになった。もうこれでいくつめの会社だったろう、履歴書の職歴欄に書ききれないくらいになっていたが、今度はそこそこ大きめの会社に採用されることができた。配属になったのは管理部。すっかり人付き合いが苦手になってしまったぼくとしては、助かった思いがした。
 管理部に顔を出した初日、隣に座っている先輩の女性社員が仕事の進め方や電話の取り方、他の社員の人の紹介などをしてくれた。ぼくとそう年も変わらないように見えたが、はきはきと大きな声で話す彼女に圧倒されそうになりながら、ぼくは一つひとつメモを取って仕事を覚えようとした。いくつか質問をしたりしていると、突然彼女が、

「じぶんそのしゃべり方、地元とちゃうでしょ? 出身どこ?」

と聞いてきたのだ。ぼくはあぁまたかと内心気が滅入った。内心、どころかおそらく表情に出してしまったのではないかと思う。そこで慌てて取り繕うように唇の端をゆがめてみせた。これもいつものことだ。そして今度はあぁまたやっちゃったと自己嫌悪に陥るのだ。出身地を聞かれるたびに昔の傷が顔を出し、悟られまいとするのがすっかり癖になってしまった。
  いつか来た道だとは思いながらぼくは小さく「石川です」と答えた。すると彼女は「あぁ!」と小さく声を上げる。今度はどこと勘違いされるんだろう。何をいわれるんだろう。いつまでたってもぼくの心は柔らかくて、傷を受けやすいままだ。それを守る術をぼくはまだ身につけられないでいた。
 そんなぼくの葛藤を知るはずもない彼女は、握り拳をぼくの目の前にぐっと突き出し、親指を一本立てた。ちょうど「グー!」のサインのように。そしておもむろに第一関節だけを90度ほど曲げてみせた。

「こうなってるとこやんなぁ!」

 一瞬あっけに取られて、それからしばらくして、彼女の言わんとするところを理解したぼくは、大きく頷いた。何度も何度も、ただ無言のまま頷いた。そんな風に石川県を表現する方法に、地元民であるぼくでさえ初めて出会ったのだ。新鮮な感動をおぼえた。久しぶりに人とふれあったような気さえした。自分の思いの届かないところを形で示してもらい、それを今度は自分のものにしていく。ぼくはまるで小さな子供のようだった。

「ええとこやん! 今度話ちゃんと聞かしてな!」

 彼女は笑みを絶やさないまま続けて言った。
 ここでならうまくやれるかもしれない。
 大阪に出て来て2年、ふと事務所の窓から見た空は、抜けるように青く、高かった。空ってこんなに高かったんだって、今更ながらに感じてた。

東京アワー / さくらいく