モノローグ

祖父母の住むこの小さな海辺の町。
その家を出て細い路地を1分歩くと、
目の前には堤防が横たわっている。

その5メートルほどの大きな壁に上ると、
海側の視界が一気に開ける。
壁の向こう側がすぐ海になっているわけではなく、
漁港としてそれなりに大きなスペースがあり、
さらにその先に今は穏やかな海が見える。



夢への一歩をやっと踏み出せた。
地方の診療所の医師になろうと決めてから1年、
国立大学の医学部に合格。

津市から2時間半のこの小さな田舎の町で、
報告のメールを僕は誰にも送れないまま、
この海のある風景を見ながら歩く。

宛先すら入力されていないそのメールの本文には
一言『合格しました』とだけ書かれていて、
そのたった一行の言葉を表示するには
携帯のディスプレイは無駄に大きい。
でも、他に送るべき言葉も見つからない。



南東の風が不意に僕をふわっと包み込む。
潮風の匂いがまるであの頃を連れてきたように、
海浜幕張の高層ビルたちが目の前に浮かぶ。

いつかのクリスマスイヴ。
沈んでいく夕陽とそれを受け入れる海、
暗くなる空とそれを受け入れられない対岸の明かりを
大好きだった人と二人で見ていた。

あの頃の僕はあまりにも子どもで、
語り合えばそれが現実になると思っていたし、
つたない言葉でも「好き」と言えば、
思いの丈が全て伝わると信じていた。

その彼女との最後の電話の時に言ったことを
今でもよく覚えている。
「恋愛感情はきっと薄れていくけど、
貴女のことはずっと好きでい続けるよ」



さっきからずっと開いたり閉じたりしている
折りたたみの携帯電話とまた向き合ってみた。
例の未送信メールを呼び出す。

「頑張れ!!」
と言ってくれたたくさんの人たちに送ればいい。
でもどうしてか、今は送る気にもなれない。

歩き疲れて堤防の縁に座ると、
まだ少し肌寒い3月の陽気のせいか、
石はちょっとだけ冷たかった。

思わずため息をこぼす。
合格して嬉しいのに、こぼれてくるため息。

──もし最初に報告したら、貴女は僕を祝ってくれる?

そんなことを考えて、やっと宛先を入力する。

あと少しすれば、この町にも夕暮れ時がやって来る。
もう何度目になるかわからないけど、
彼女のことをさらに思い出すように目を閉じる。



僕が千葉県を出たかったのは、
海に沈む夕陽を見たくなかったからだ。
終末を思わせる、沈みゆく夕陽は
僕の心に緩い不安感を着せて去る。

彼女が残した置き土産は、
黄昏時の海を臨む僕の背中側に伸びる陰。

だから僕は三重県を選んだ。
この海に、陽は沈まないから。



風が強くなって、
海面が大きく揺れ動くのが見える。

──やっぱりメールは送れません。さようなら。

合格したことも、本当の気持ちも伝えない。
多分、これからもずっと。

──それが、まだ薄れもしない貴女への想いのカタチ。



町並みに消え行く夕陽が、
後方から海を橙色に染めていく。
僕はただそれを見続け、
海もまた僕を見続けるのだろう。
水平線に向けて叫びたい衝動を抑える。

堤防の上に波の音が届いてくることはなかった。

World With Words / Tomo