テーブルの上で

彼に投げつけたミネラルウォーターのボトルは
冷蔵庫にぶつかった後、鈍い音を立てて床に落ちた

それがうまく彼に命中しなかったことが私を余計にイライラさせた

「あーあ…」

少し寂しそうな、でも歪んだ笑いを浮かべた彼は
ボトルの行方を見送ると気だるそうな声でそう言った

それからゆっくり床に跪き、落ちたボトルを拾って
ダイニングテーブルの上に戻した

故意でなく擦り切れて開いたGパンの穴から
彼の膝がちらちらと見え隠れしているのに少し心を奪われながら
私は更にテーブルの上のマヨネーズを掴んで再び彼に投げつけた


私の手から真っ直ぐ彼に向って投げられたそれは
彼の額に命中し、その途端蓋がどこかにふっ飛んだ

それと当時に容器の中のマヨネーズが
彼の髪やソファや床など部屋のあちこちに飛び散って
部屋中に酸味のきいた匂いが広がった

「痛っ…」

マヨネーズのスプラッシュと
それを浴びた彼の惨めな姿がそこにあった

私は「やった!」と思った
そんな彼の姿が見たかったのだ

もう、むちゃくちゃ嫌な女と思われてもいい

どうせ彼とは別れるのだから





とびきりうれしそうな表情を彼に向けた私は
努めて冷静を装ってこう言った

「ひどく素敵」

彼の髪に付いたマヨネーズがまるでメッシュのようだった
それは急に年老いたような印象を彼に与えていた

そんなことに満足しながら冷蔵庫の前へゆっくり移動して
ペットボトルが当たった場所を何気に確かめた後で扉を開いて

「次はどれがいい?」と彼に聞いた

冷蔵庫には彼に投げつけるのに魅力的なものがいっぱい詰まっていた


彼の返事も待たず卵に手を伸ばそうとしている私に
彼が「それはやめとけ!」と叫んだ

私は彼の言葉を無視して
「目玉焼き、大好きよね?」と聞いた

「やめとけって」

「いやよ」

「目玉焼きは嫌いだ」

「私は好きなの」

「俺は嫌いだ」

「私は大好きなの」

「俺は大嫌いだ、知ってるだろう?」

「私は大好きなの」

大好きなのよ、知ってたでしょう?

そう叫んだが早いか、卵を掴んだが早いか
卵は彼目掛けて部屋の中を斜めに飛んだ

卵は彼の右手に捕まり、その掌の中でぐちゃっと潰れた

「いい加減にしろよ」

「嫌よ」

「そんなことしたって無駄だ」

「判ってる」

「判ってるなら」

「判ってるから」

判ってるから気が済むまで止めないでよ





潰れた卵をキッチンの流し台で彼が洗い流しているのを
悔しさで溜めた涙をこぼさないよう私は見ていた

洗い流される卵の残骸、それは今の私だ

黄身だったり白身だったり殻だったりした
いとも簡単に壊れる自分の心と身体

それらが彼の掌の中で潰れ、ぐにゃぐにゃになって洗い流されている

不意に口から出た言葉

「やめてよ」

すでにGパンの尻で濡れた手を拭いてる彼に向ってもう一度繰り返した

「やめてよ、そんなに簡単に洗い流さないでよ」


彼は私を潰れた卵のように簡単に洗い流したいのだろう
彼の心にはすでに別の女が住んでいるのだから


そんなの嫌だ、絶対嫌だ

私は彼とは別れない

そんなに簡単に別れない





彼は狭いクローゼットの中から
元々自分のものだった黒いナイロンのバッグを出して
その口を大きく広げた

彼はそれに自分の所持品を次々と詰めた

私はその姿に背を向けて
再び「やめてよ」と言いながら悔し涙をたくさん流した


どうしてこんな奴に惚れたのだろう――


彼は私と半ば同棲している最中でも
別の女に現を抜かしているような奴だった

そんな彼とは本当の意味で家族になれないだろうと
いつかはこんな日が来るのだろうとずっと覚悟してきたけれど

その日が遂に来てしまったらしい

今まさにその修羅場なのだとぐらぐらした頭が肯定した


憎い――


彼に対する愛おしさは憎しみに変わっていった
それをぶつけられるものをすぐさま探した

ダイニングテーブルの上の
まだ冷め切っていないコーヒーがたっぷり入った耐熱ガラスのポットに
自分の手がゆっくり伸びていくのを自分ではもう止められなかった

ポットの取っ手に自分の指が触れた途端
自分の肘でさっき彼が戻したミネラルウォーターのボトルを倒した

その音に私は一瞬びくっとして彼に振り返った
彼はそんな音や私の様子には一切気付かなかった

思わずにやりと意地悪な笑みがこぼれた

私はポットを後ろ手に持つと静かに彼に近付いていった





「ふうん、いっぱいあったのね」

バッグの開いた口から彼の歯ブラシが望めた

それはパステルは嫌いだという彼の好みに合わせて選んだ
クリスタルブルーの歯ブラシだった
自分にはピンクを買ってペアにした時のことが昨日のように思い出された

私がそんな感傷に浸っている間にも
彼は自分の衣類をかき集め、次々と黒いバッグに突っ込んだ

「あとは…と」

淡々と別れの荷造りをしていく彼を許せないと思った
私に何の未練も感じないのかと問い質したかった

咄嗟にバッグの中を指差しながらこう言った

「返して」

振り返った彼が聞く

「何を?」

「それ」

「どれ?」

「それ、私のよ」

「どれだよ?」

それよ、それ全部


持っていたポットからコーヒーをバッグの中に注いだ

「やめろっ!」

怒りで目を大きく見開いてる彼を横目に
注いだコーヒーがバッグの中の彼の衣類にすぐさま滲み込んで
異様な模様を描いていくさまをじっと見つめた

彼が慌ててバッグの中を覗き込んだ頃には
その底にコーヒーの水溜りができていた

バッグを持ち上げると
コーヒーが底の縫い目から数滴垂れた

彼がかっとなったのを感じ取った私は
すぐさま彼の傍から逃げたが一瞬遅く

彼の左手が私のTシャツの首元を掴み

彼の右手が憤りに任せて私の左頬を叩いた

「このっ!馬鹿野郎!」

彼に叩かれた瞬間、そんな奴だったと改めて思い返した

女を叩ける男なのだと
彼はそんな男なのだと

悔しい、やっぱり許せない――


「だって私のものだったじゃない」と悔し紛れに叫んだ

「あなたも私のものだったじゃない」と叫んだ自分は惨めだった

彼は私を離すとコーヒーの滲み出たそのバッグに蹴りを入れた

「いいさ、もういらない」





彼のそんな態度に憎しみがどんどん込み上げた

「嫌よ、別れない」

自分のそんな激情を止められないまま
私は両手を拳にして彼に向っていった

「嫌!嫌!嫌!嫌ーーーっ!!」


別れてなんてやらない

別れてなんてやらないから


拳は彼の身体のあちこちを強打して
そのうちのひとつが彼の唇に当たって彼のそれが切れた

切れた傷口から血が滲んでいくのをわざと無視して
彼を更に叩き続けた

自業自得よ――

切れた唇から彼が血を流していても全然構わない


悔しくて悲しくて寂しくて
もっともっと彼を叩きたかったのに、突然彼が私を止めた

「判った」

「判った?」

「判ったから」

「判ったって、何が判ったって言うのよ」


こんなに好きなのよ、こんなに好きなのに――


「あなたになんて――」

その先の『判らない』という言葉を言う間もなく
彼の手が突然私のTシャツの首に掛かった

次の瞬間、それはビリッという乾いた音を立てて一気に引き裂かれ
私の首に赤い擦り傷を作った

「なっ…」

抗おうとする私の口を彼は血の滲んでる自分の唇で塞ぎ
それからタオルで私の口を縛ると
私の身体から裂いたTシャツを無理やり剥いだ

怯んだ私はそれで両手を縛られた

そうやって私の自由を奪った彼は
私を見下ろしながらひどく甘美なニュアンスを込めてこう言った

「黙ってろ、今判らせてやるから」





ダイニングテーブルの上のものが
彼によって次々に床に落とされていく音を
私はTシャツで縛られたまま呆然と聞いた

音が一通り静まると今度は私の番だった

私はその何も無くなったダイニングテーブルの上に
強引に引きずり上げられ、乱暴に押し倒された

背中にテーブルの冷たさと硬さを感じて
縛ったタオルから思わず「ううっ」という自分の声が漏れた

それを聞いた彼が肩頬で微笑むのを私は見逃さなかった

残虐的な彼のそんな笑みは初めて見た

その微笑に背筋が凍った
怖くて逃げられなかった

そんな私は彼の次の行為を
身体を震わせながら待つしかないのだった





それはマヨネーズの、そしてコーヒーの仕返しのようだった

めちゃくちゃにされた部屋の中で
ぐちゃぐちゃにされた私のそこに
彼は何の遠慮もなく自分のいきり立ったそれを鋭く深く突っ込んだ

彼はそのまましばらくダイニングテーブルを軋ませた後
今度は私の髪を掴んで無理やりうつ伏せにし
テーブルの端に私の尻が突き出すような格好をさせた

私の尻の割れ目のその奥に彼が再び自分のそれを埋めている間
半分脱いでいる彼のGパンのポケットから
この部屋の鍵の先が飛び出しているのに気付いた

それは彼と連動してダイニングテーブルの脚に当たり
チャリチャリとリズミカルに音を立てていた

このダイニングテーブルも卵や私と同じだと思った

どれも彼に傷つけられていたから


口の中は彼の血の味とスプラッシュしたマヨネーズの匂いがした

こんな強姦とも呼べるようなやり方で
私を犯している彼の髪や身体からも同じ匂いがずっと漂っていた

メッシュに見えていたマヨネーズはすでに彼の髪と同化して
その存在をギラギラと光らせていた

そんな彼に犯されているというのに
ちょっぴり思った

いい気味、と――





色の無いマヨネーズのような
そんな彼のスプラッシュを最後に顔に浴びた

容赦なく彼に犯された自分の身体は
赤青混ざった痣がいくつもできてそれが痛んだ

ついさっきまで彼がチャリチャリと鳴らしていた鍵は
ポケットから取り出されてテーブルに置かれた

Gパンを引き上げチャックを閉めた彼は
正に征服者で勝者だった


玄関のドアがガシャンと閉じられ
彼の靴音が完全に消えるのを待ってから
私は自分の口と手の自由を奪っていたタオルとTシャツを解いた

それが簡単に解けるように縛られたものだということは
解きながら知った

もしかしたら彼は私が自分で簡単に解けるよう配慮して
縛っていたのかもしれないと思った

そんなわけないのに――

私にこんなことした奴だった
けれど、私にそんな風に思わせる奴だった


解いたタオルを広げて
自分の顔にスプラッシュされた彼のそれと
溢れ出した自分の涙を拭った

それからゆっくりと起き上がって
彼にめちゃくちゃにされた自分の身体や部屋の中を
一通り見回して溜息ついた

「こんなにやられちゃったか…」

別れの勝負の結果なんて最初から判っていた

恋はより惚れたほうが負けなのだ

私が彼と別れたくないと悪あがきすればする程
彼の気持ちはどんどん私から離れていくのだから


「あんな男に未練なんて無い」

強がってみた

「あんな男に未練なんてあるわけ無い」

言い替えても強がりは形ばかりで

「馬鹿だ、あたし…」

こんなに惚れてた

そんな自分がいじらしかった





気付くと、あのコーヒーがたっぷり滲み込んだバッグが無くなっていた

きっと彼が持って出たのだろう
それと共に彼の所持品も部屋から全部消えていた


『黙ってろ、今判らせてやるから』――その意味を初めて知った

彼にしてやられた、そう思った


あんな男は愛せない

それを誰より彼が一番知っていたのだった

Toki-iro's Memo(Weblog) / 時色