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みかん

 私は無言で去ったのだった。


 「みんな、静かにしてー」


 九つのとき、父に捨てられた。
 十五のとき、故郷を捨てた。
 二十歳で母を捨てて、二十五で男に捨てられた私は、三十を手前に自分を捨てるつもりだ。
 とんでもない寂寥感であった。


 「お休みの人のおみかんが欲しい人、こっちに集合」
 「しのはらさんは行かないの?」
 「うん」
 「みんな行くよ」
 「おみかん嫌いなの。凍ってるともっと嫌いなの」
 「ふうん。おいしいのに」
 「これで全員?」
 「はい」「はーい」「ぜいいん」
 「じゃあ、いくよー」
 「じゃん、けん、」


 父は母に暴力を振るった。銀行の偉い人だったので一番の私を望んだ。私は、がむしゃらに母を守り一番を守っていた。張り詰めた毎日に疲れ、父の死ぬ場面だけを想像した。九つになった頃、父は他の女と暮らし、私はツンドラの夢を見た。
 周りは私に不幸から解放された少女であることを望んだ。私もそのように振る舞い、勉強に、運動に、学級活動に精を出した。良識の範囲で恋をして、学則の範囲でお洒落をした。惰性で守った一番で、地元で一番の私立高校を受験して落ちた。地元で一番の公立高校を受験して落ちた。寄る辺をなくした私はわがままに泣いて、母と二人、遠くの土地に引っ越した。噂の立たない土地は快適すぎるほどに静かだった。
 私は母にイライラしていた。アルバイト先で知り合った男とセックスしたら、母は叱りもせずに泣いた。私が女になることを拒否した。それに従い、私は、以降セックスをしなかったが、男と体を弄りあった。あるとき男が「一緒に暮らそう」と言ったので母のそばを離れた。久方ぶりに感じた「男」は、大きな存在感だった。背中は空洞だった。


 「ぽん!」
 「あいこでしょ」
 「木野くんと嶋田くんだけ残ってください」
 「じゃんけんぽん、あいこで・・・」
 「負けちゃった」
 「冷凍おみかんくらい別にいいじゃない」
 「ぼくは大好きなんだもん」
 太田くんは口を尖らせて涙目になった。変なの。


 何気なく応募した少女小説大賞で佳作を取った。担当がついて私は恋愛小説を書き始めた。言葉は面白いほど溢れた。言葉が溢れるのと比例して、男との会話が減った。「印税生活だなんていい身分だね」。男は私をなじり始めた。「いつ切れるかわかんない身分だわ」。私は男に甘えてみせた。だがこんな心の狭い男などいらないとも思っていた。重苦しかった。男はいつしか他の女の部屋に入り浸り、私はひとりになった。望んだ生活を手に入れて、私はひとりになった。なじる者がいなくなり、私はひとりになった。
 独り言の増えた私は少女小説で成功した。担当者と体の関係になった。別の担当者とも体を結んだ。ある男性作家と夜を過ごした。少女小説という表現に制限のある世界は、私の心とまるでつながりがなかった。私はセックスで言葉を忘れた。単調な言葉以外出て来なくなった。からだを結ばない恋愛などないと思った。恋愛ではない、男と女で体を結ばないことなどないと思った。年齢層の高い賞に応募した。選外であった。プロだというのに。ミステリーに趣向を変えた。選外であった。プロだというのに。プロだというのに。プロだというのに。プロ プロ プロ プロ プロ・・・


 「あたしのおみかん食べる?」
 本当はあたしそんなこと言うつもりじゃなかったんだけど、だっておみかん嫌いだもの。
 「しのはらさんは食べないの?」
 太田くんは目を丸くした。どんぐりみたい。
 「あたしおみかん嫌いだもん。いらないもん」
 やだな、こんなことして、みんなに「しのはらは太田が好き」てからかわれたらどうしよう。
 「じゃあもらう」
 太田くんは、べっちょり汗をかいたおみかんをあたしの手から取って、そのとき、太田くんの指があたしの手のひらにさわって、なんだかとってもどきどきする。


 私を縛るものを全て捨てることにした。それは今までずっとそうであった。捨てたこともあれば捨てられたこともある。私は楽になりたくてそうしてきたのだった。けれど必ず残ったのは、寂寥感。孤独感。世界から切り離された気分。ひとつひとつ丁寧に、果物の皮を剥くように、私は自分の背中の荷を降ろしてきたはずだった。けれど楽にはならず寂しくて、「誰もいない感じ」だけがリアルに私のからだを襲った。
 もうこの世界に、私を縛るものは何ひとつなかった。社会からも見放された。そうして恐ろしくひとりぽっちになった私は、ひとりぽっちすらない世界に行くことにしたのだ。
 さよならを言う相手もいないから、私は無言で去ったのだった。ありがとうを言う世界もないから、私は無言で去ったのだった。
 最後に耳に響いたのは、私の靴が片っ方脱げる音だった。意識のある最後はそれだった。あとは全身の血液がおかしくなるのを感じて、もう何も感じなくなり、感じない時間があってから、私はこうしてベッドに寝ていた。


 「食べる?」
 みっちりひっついていたおみかんの皮と身を上手に剥いて、太田くんはあたしに一粒差し出した。
 一番ちびちゃくて、あたしは手のひらに置いてもらった。また指がさわったの。どきどきする。


 かつての担当者がみかんを剥いていた。「いいのをもらったから」。乾いた皮をひざの上に置いて、一番小さなひとつを半分にちぎり、私の口に差し出した。それをつるりと口に入れる。酸味・甘味・ぷちりと弾ける粒。言葉も出せず、涙も笑顔も出てこず、私は何をしているのかわからない。


 あたしは太田くんにもらったのを口に放り投げた。おみかんは、酸っぱいような、甘いような、へんてこな味がして、凍ったおみかんは、そのへんてこな味ばっかりがするから、あたしは嫌い。けれど、不思議と、へんてこな味がしなかったの。
 こういうとき、なんていうのかしら。
 あたしはこの、へんてこをへんてこに感じないへんてこを、太田くんに言いたくて、でも言えないの。


 「自分を苦しませる必要はないよ」
 彼は勝手に話していた。
 「休みたかったなら、そう言えばいいのに。そういう自由のきく業界なんだから」
 休みたかったわけではないのだ。
 「誰にだってある時期だよ」
 「何言っているの」
 やっと出た声がこれか。
 「生きてて良かったってことさ」
 「良くないわ」
 「嫌な気分はそんなに続かない」
 「消えたい」
 「こうして声が聞けてよかったってことさ」
 「私を埋めて」
 木で首をくくり、そのまま重みで死体を下げた枝が落ち、死体は枯葉の中に埋もれ、培養土と化すことを望んでいたのだ。
 「捨てて」
 私を捨てたかったのだ。
 「捨てたのだから、捨てて」
 「その言葉も。聞けなくなるところだった」
 何て身勝手なことを言うのだ。この男は、私を抱いて、そして私の新しい作風を否定して、私を否定して、私を殺したではないか。
 「私を、もっともっとひとりにして頂戴」
 「その言葉にすら、触れることが出来なくなるところだった」


 太田くんは、どんぐりみたいな頭をしてる。どんぐりみたいな目をしてる。それで、おみかんが好き。
 太田くんは、給食を食べるのが早い。おしゃべりするのはちょっと遅い。それで、ちょっと優しい。
 ありがとう。
 おいしい。
 言えばいいのにな。言えばいいの。でも、そういうのとは違うんじゃないかって思って、あたしは言葉を出せないの。


 半分にちぎった残りを、彼は食べた。口の中に放り込み、味わうように口をもごもご動かした。何も言えない私の頭を、とらえきれないくらいのスピードで言葉が行き交っている。どの言葉を選べばいいのかわからない。行き交っているのはわかるけれど、意味はどれも不明瞭だ。それらはあまりに速いので、風を切るような叫ぶような声にしかならない。突然の大声に彼は驚きながらにやにやしている。なんてうるさいんだろう。頭の中が、とてもうるさい、うるさい、うるさい、助けて。と、涙がどっと出る。言葉は出てこないのに。まだそこで頭の中で、ずっとずっとうなりつづけて走り続けているの。
 私のそんな苦しみを余所に彼はまたみかんをはがした。そしてひとつ、私の口に押し込む。


 あたしはちょっと濡れた手のひらを、ブラウスの裾できゅっと拭いて、太田くんを見た。
 それから
 「もう一個ちょうだい」
 太田くんは、ひとつ、はがして、にっかり笑って、あたしの手のひらに乗せながら言うの。
 「おいしい?」
 すると、磁石みたいに、すうっと言葉が喉から出てきた。


 「おいしい」


 頭に突発的に登場したその言葉を、私の声帯は響かそうとした。彼はにこにこ笑っている。
 私は無言で捨てたのだった。
 それなのに、いつまでも、こうしていつまでも私に残るものは。
 私は泣きじゃくり、口の端から少しみかんをちらつかせ、そうしながら、イメージしていた。
 動脈を流れているもの。まるで私の命であるかのように流れているものは。
 言葉なんだ。
 意味を求めてる言葉が、言葉が、私の中に住んでいるのだ。消えないのだ。

 言葉なのだ。
 それは、言葉なのだ。

 心がかよったなあ、と思ったのは、言葉があったからかな。

 言葉なのだ。
 それは言葉なのだ。

   私に生きていることを知らしめるのは、言葉なのだ。
 私の声とは裏腹に体中を巡るのは、言葉なのだ。


 決して消えない言葉なのだ。



     「それが、聞きたかったんだ」

つな缶。 / とびたつな