灰色のプレゼント

それは先々月の今頃、具体的な日付は定かではないけれど、
時間だけはよく憶えている。

片手間の仕事に飽きた途端腹が減っていることを思い出して遅い昼食を取った。
眼前には一応、お情け程度に原稿を置いていたが
食い終わってからも暫しだらだらとしていた。

面倒だったのだ。

だからテレビを点けて見るともなしにぼんやりしていた。
そして応える筈のないそのテレビに文句を言ってみたりして
何処かの主婦のように無為な午後を過ごしていた。

僕は常日頃からこんな状態で、だから平素から大して時間なんか気にしない。
けれど、その日に限っては気紛れに時計を見たのだ。
午後3時32分。


あと1分でゾロ目だなんて
大の大人が馬鹿みたいにデジタル時計に見入っていた。
だから尚のこと、よっく憶えている。
こういうのを多分世間では暇人と言うのだろう。
揶揄するとしたら「善い御身分で」辺りだろうか。
事実そう言われたところで文句のひとつも浮かばない。
何故なら僕は実際、他人にとやかく言われずとも
充分暇を持て余していたのだ。
但し、だからと言って生活に余裕がある訳でもなかった。
いやいや、寧ろ食うや食わずやの日々だったのだ。
その割りに仕事にも大して意欲がなかったのだが。

僕はそういった実にのんびりした人間なのだ。
元来からのんびり屋でポジティブ思考である。
友人連中には、
悪い意味のマイペースだとか頭が空っぽなのだとも言われるが。



インターホンが鳴った。

僕は炬燵に足を突っ込んで寝転がった姿勢だったから、
半分ぐらいは無視しようと思っていた。
否、その時点でほぼ無視することは決定していた。
しかしもし編集担当者だったら拙い。
とは言え、担当だったら無視していたって合鍵で入ってくるのだ。
だから無視すること自体に余り意味はない、
寧ろ無視したことを咎められるだろう。

よし。もし怒られたら
『余りに夢中になって原稿を書いていた為気づかなかった』
と言おう。
僕はそのように言い訳まで考えたのだ。
書いていたと言えるほど原稿は進んでいなかったのだが。


しかし玄関口のその人は入ってくる気配がない。
どうやら担当ではないらしい。少し安心。
ではセールスか。
セールスならばそろそろ扉をドンドンと叩いて
そして諦めて帰って行くだろう。

もう一度、インターホンが鳴る。
何用だか知らないがなかなかしつこい。
その根性を認め、僕は渋々起き上がり
玄関の覗き穴からこっそり外を窺った。

宅配便の配達人らしき男が困った顔をして立っている。
今日荷物が届く予定はなかった筈だが・・・。
もしや僕の人気を妬んだ同業者が、もしくは僕の作品の熱烈な読者が
思い余って爆発物でも送ってきたのかもしれない。
これは拙い。今すぐするべきことは何だ。
僕にはその手の瞬発力が全くない。反射神経皆無の男なのだ。

実際にはそこまで考えずに扉を開けた。
後付で申し訳ないが一寸格好付けたかったのだ。
その程度のことに執心してしまうぐらいまだ若いのだ僕は。
ちなみに同業者に妬まれるほど売れてもいないし
熱烈な読者がつくような作品を書いた覚えもないのだが。

僕が扉を開けると、配達人は必要以上に安堵の表情を浮かべた。
矢鱈にホっとした、という顔である。
そういう顔を見せられると現金なもので
無視しなかった己を褒めて貰いたいような得意な気分になった。


「こちら薬師寺さんで宜しかったですね?」

宜しかったですね、と言う言葉遣いは可笑しい。
しかし昨今のサービス業者
(宅配業が果たしてサービス業なのか如何かは定かではない)
その中でも特に若者は、大抵の場合に於いてこういう物言いをする。
そして厄介なことに、この言葉遣いは感染るのだ。
だから当たり前のように蔓延しているのだろう、恐らく。

「宜しかったです」

僕は生まれてこの方ずっと薬師寺なのだが、
案の定その言葉遣いが感染ってしまい、うっかり過去形にしてしまった。
恐らく豪い間抜け面だっただろう。
それはそうだ。
僕は今までだって、そして今後も恐らくずっと
死ぬまで薬師寺であるのに、
薬師寺さんは今、過去の人となったのだから。


「印鑑お願いします」
「サインでも宜しかったですか」

我ながらしつこいと思ったが
感染ってしまったのだから仕方ない。
僕の名誉の為に言っておくが
この配達人としつこさを競い合おうとしていた訳ではない。


「ああ・・・では此処にフルネームでお願い出来ますか。
一応貴重品扱いなので」

『ああ』の後のその間は何なのだ。
そして『一応』貴重品とはどういう意味だ。
中身を知っている口振りだが憶測でモノを言うのか君は。
否、実際どうにかして中身を知った上でそう言うのか。
君にとってはそんなもの貴重品なんかではないがという意味か。
それでも僕にとっては大層貴重な品だったら如何責任を取るつもりだ。
他人のゴミは自分の宝、自分の宝は所詮ゴミ、
俺のモノは俺のモノ、お前のモノも俺のモノ、という
格言を知らないのかね、君は。

しかし勿論、ポジティブでのんびり屋で小心者の僕が
そんな説教染みたツッコミを入れる筈はない。
相手もボケているのではないだろうし、
残念乍ら僕も物書きではあるが芸人ではない。

しかし少し悔しかった為、
いつか売れた時に使おうと思って編み出した
『小説家:薬師寺信哉』としてのサインをしてやった。


「はい、ではこれがお届け物です」
「ああ、どうも」

配達人はサインを見ても丸で反応を示さなかった。
・・・もしや僕のことを知っていたのではないだろうか。
そうだそれで、彼は少し驚いたけれど
今はプライベートと割り切ってわざと黙って知らない振りをしたのだ。
後になって友人知人に自慢するに違いない。
もう少し大きく書いてやるべきだったか。

僕の心配を余所に彼は足早に去っていった。
そういえばこの地域の配達人は
確か可愛い女性だった筈だが、会社が違うのだろうか。
少し残念。


荷物の伝票を見ると、送り主は何と担当者だった。
こんな時期に何をわざわざ送りつけてきたのだろう。
大体この程度なら持参すれば善いのではないか。

厭な予感がした。
これはもしや本格的に爆発物かもしれない。
昨今の宅配業者は中身を確認しないのだろうか。
職務怠慢だ。全くどうかしている。

僕は玄関先で恐る恐るダンボールを開いた。
手だけをガムテームに這わせ、顔を出来るだけ離して。
顔に傷でもついたら洒落にならない。

しかし出てきたのは・・・灰色のコートだった。

「あら」

僕は思わず気が抜けて、妙な独り言を吐いた。
どういうつもりか知らないが、プレゼントらしい。
僕のコートが彼是7年モノなのを何処かで聞きつけたのだろうか。

然しこのコート、地味だ。
あの女、矢張りセンスが悪いらしい。
僕の素晴らしき作品の数々を「ふざけてるんですか」の一言で
一蹴してきただけはある。最低のセンスだ。

僕はこう見えて派手な色が似合うのだ。
しかも黄色。真っ黄色こそが僕の色。
僕は黄色が何より似合う二枚目なのだ。
玄関先でセンスの悪いそのコートを眺めて僕は暫し途方にくれた。

・・・着たくない。


間違っても着たくない。こんなものを着ているのを
朋友にでも見られたら「頭空っぽ」と言われるに違いない。
只でさえ空っぽと言われるのだ、次こそは「カラカラ」とか言われるかも。
他人の宝は自分のゴミと言う格言をあの女も知らないのだろう。
僕は心中で毒吐きながら、その時になってやっと
カードが付加されていることに気づいた。


『薬師寺先生へ。
こんな形でこんな物を差し上げることを
あなたはきっと訝しむでしょうね。
この度、私は先生の担当を下ろされました。
それは多分に、私のこの想いの所為だと思います。
公私混同は何よりの禁忌。
だからせめて私の想いを大好きな緑色に込めてみました。
コートを選んだのは先生の着ていらしたコートが
もう随分古くなっていたからです。
出来過ぎた真似をしてすみません。
これだけ書けば、聡明な先生のことだから
私の気持ちに気づいて頂けると思っています。
中谷 草子』


僕は愕然とした。

まさかあの女が、そんな想いを秘めて
僕に接していたとは知らなかったのだ。本当に夢にも思わなかった。
判った途端に、今までの彼女の全ての行いが
馬鹿だ阿呆だ小説家失格、いいや寧ろお前なんか人間じゃないなどと
有らん限りの罵詈雑言を吐き続けた彼女のその言葉をも
全てが愛情ゆえであったことに思い至った。

そして彼女に伝えなかったことを僕は後悔した。



僕は後天的な赤緑色盲なのだ。

きっと彼女は全ての想いをそこに込めたであろうに、
彼女は自分の大好きな緑色に全ての気持ちを込めて
僕に捧げたつもりでいるのだろうに、
僕にはその透き通るように美しい筈の緑色を識別出来ない。
僕にはそれが、見事に曖昧な灰色に濁って見えてしまうのだ。

彼女らしい詰めの甘さ。僕らしい疎かな後悔。
伝え切れなかったことが、お互いの大事な言葉が
そうして二人を分かしてしまったのだ。

二人の世界は結局、灰色のまま僕の中で燻って行―――





「何ですか、これは」
「何ですかって君。此処まで書いたら君が来たんだよ」
「そういう意味ではありません。
この文章はなんですか。恋愛小説ですかミステリですか」
「まあ前衛小説とでも言って貰えれば結構」
「言いません。前衛ではなく最低です。あなたは小学生ですか」
「君ねぇ、僕が小学生に見える?・・・いや、睨むなって。
判ったよあのね、だからそういう風に文章を
否、全ての物事をわざわざ分類する必要などないんだって。
日本人はとかくジャンル分けをするけれど、
それは君、無意味だよ。無意味」
「無意味なのはこの文章です。
そしてさりげなく論旨をずらすのは止めてください。
私はそんなことを尋いているのじゃありません」
「ずらしてないじゃない。判った判ってるよ。
そんなことを尋いてるんじゃないのは判ってるってば」
「まずですね、此処に出てくるこの中谷って女は
私のことですか?そうですね、確かに私は中谷です」
「名前は別にどうでもいいのさ、便宜上だよ」
「何が便宜上ですか。此処に出てくるこの薬師寺って男は
名前もまんまですし、この阿呆さ加減と言い
丸っきり先生のことそのままじゃないですか。
そうなるとその馬鹿先生の担当をしている中谷とは
もう丸っきり私以外いませんけれど」
「阿呆だ馬鹿だと失礼だなぁ。それに何怒ってるんだよ。
ちゃんと締め切りまでに書いたじゃないか」
「書けばいいという問題ではありません。大体完成していない」
「何、つまらない?結構自信作だよ、これ」
「いいですか、先生?この期に及んでふざけている場合じゃないのです」
「ふざけてないんかいないよ。大真面目じゃないか。
これはほら・・・君の好きな分類で言えばだね、
何て言うのか・・・そう!自伝だよ、自伝。ノンフィクションでもいい」
「なるほどそうですか。では先生は赤緑色盲なのですね。
それは知らずに今まで大変御無礼致しま」
「判った!悪かったよ、お陰様で僕は健在者だよ。
この通り透き通るような美しい緑も識別出来るよ。
それに君ね、赤緑色盲は別にそれ等の色が灰色に見える訳じゃないんだよ。
一節に拠ればそれはこげ茶色だともモノクロだとも言」
「この通りと言われても先生の目を通して
世界を見ることは出来ませんから判りません。
それにカラーを識別出来ることが必ずしも有利とは限りませんので
実際はカラーを扱う職種でもない限り色の識別なんて
如何でも善いことなんです」
「まあね」
「まあね、ではありませんよ先生。
こういう問題は非常にデリケートなんです。
この手の話題を扱えるのは識者だけなんです」
「遠回しに馬鹿って言っているのかそれは。
それはそれでムカツクぞ中谷君」
「そうです馬鹿って言っているのです。でもまぁ・・・善いでしょう」
「へ?」

中谷から突如吐き出された肯定の言葉に
僕は正直に動揺してしまった。
否、文章は実際真面目に書いたのだが
彼女に対してふざけた返答をしていたのは確信犯である。
それはこの担当者をからかうのが面白いというのもあるが、
ほぼ大多数で勿論、言い訳の為だ。
そして言い訳をしていたのは
我ながらその程度の文章だと高を括っていたからだ。


「何を驚いておられるんですか。
善いって言ったのは、一寸正しいからです」
「ちょっと正しいって何・・・」

僕がそこまで言った時、中谷は手元の紙袋を僕に突きつけた。

「勘違いしないでくださいね。
先生が余りにみすぼらしい格好をされていると
担当者としての私が困るんです」
「は・・・あ。コートだ。しかも灰色」
「そうです。先生が色盲でないと判って安心しました。
寧ろ先生なら何を着ても一緒だと思ったから
無難な色にしたんですが、こうなると一寸感慨深いですね!」

中谷は酷く厭そうに投げ遣りに言った。
笑えば可愛いのに、この女は滅多に笑わない。
それも僕の所為といえば、まあそうなのだが。

「ああ・・・えっと・・・ありが」
「感謝の言葉は要りませんのでその感謝を是非文章にしてくださいね。
今回のテーマは身近な恋です。先生の作風では
そこにトリックを絡ませるのが好いと思いますから。
来週の火曜日までに仕上げてください」
「・・・おい!火曜日まで5日もないぞ」
「承知の上です」
「僕が承知してないんだよ!大体君素直じゃないな、これだって」
「ちなみに私、こう見えてもセンスは良い方ですから。
では、ご健闘を祈ります」

では、っておい待てよ僕の話を聞けよ
と言う僕の声は、ばたんと閉められた玄関扉に弾き返されて
僕の鼓膜をぐわんぐわんと揺らした。

僕は灰色のコートを抱えたまま茫然としていた。
どうやら僕は5日後までに
新たに作品を上げなければいけないらしい。
無理だ。


それに幾らポジティブ思考の小心者な僕だって少し悔しい。
少し悔しいから、
さっきの話の結末を今まさに僕が経験した事実に基づく内容に
書き換えて突きつけてやる。



相も変わらず天邪鬼な僕等は、こうして、微かにだけれど

淡い灰色の混沌の中で心を通わせた――ようである。

深海浮遊 / minimurin