藤の妖かしの娘

初めてその娘を見たのは、春の茶会の時だった。
娘は紫の地味な着物を纏い、茶請けの菓子を運んで後に待つ客の相手をしていた。
年のころは17か8か。
とても憂い姿が印象的だった。

正式な茶会ではなく寺の坊主の趣向の宴だったので、その後は楽師達の奏楽もあった。
堅苦しい雰囲気が崩れたので、それを期に私は娘に声をかけた。


「名はなんと仰る?」


なんともぶしつけな質問だったけれども、娘は嫌な顔一つせずに答えた。

「寺の屏風に住む藤娘ですわ。」

微笑みはどこまでも透き通っていて、娘の背景の藤棚にとても映えていた。
一瞬吹いた春の風が、花を揺らすと娘も揺れた。
二人は無言で突っ立っていたけれど、お互いの言いたいことはよく理解できた。



気づかれたでしょう

私の気持ちに


あなたを想っておりますと

一目で恋に落ちました。


気づかれたでしょう

卑しい気持ちに


あなたに抱いて欲しいのです

一目で恋に落ちました。





しばらくして私が言葉の代わりに手を差し伸べると、娘もはにかみながら手を差し出してくれた。
私達の指が触れ合おうとしたその時に、本堂の方から坊主の生臭い声が聞こえた。

「呼ばれております。」

悪いことがばれた幼子のように、娘はあわてて指を引っ込めた。

「行かなくてよい。」
「そんなわけには...。」

坊主の声は皮肉にも大きくなり、娘は益々と困惑の表情を浮かべた。
私はそんな顔すらも可愛いと思い、出来るだけ優しく笑いかけて娘を見つめた。
この一会は薄いものだと、そのとき確かに感じたからだ。
けれども遂には私の視線に耐えかね、娘はぷいと顔を赤らめ背を向けた。
華奢な肩は小さく震えていた。


無理矢理にでもその手を引いて、私は娘を連れ帰りたかった。
その娘が何をしても私は愛せると思ったからだ。

一目出会い、こうも固執するのは滑稽なことだろう。

けれども私は本気だったと思う。
娘にもし羽が生えていたならば、私は引き千切ったであろうから。
しかしながら羽のない娘から奪うものは藤の色位であり、海のように広がった藤棚を壊すのは到底無理な事だった。


「...引き止めて悪かったね。行きなさい。」


少しそっけなく背を押し出すと、娘は顔を俯けたまま一礼して立ち去ってしまった。
私に残されたのはほんの少しの思い出と、その娘が居たことを証明する忌々しい藤棚だけだった。

届かぬ声は霧の中。
次の朝には夏が見える。

キャッチャー・イン・ザ・ライ / 蒼樹宇明