桜紅

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残雪と見紛う桜ひとひらの散るを惜しみてくちびるに宿さん

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 奴はとにかく最悪だ。僕たちの3K「暗い」「汚い」「気持ち悪い」を見事兼ね備えている。じめじめしている。僕たちの定説によればあいつの主食は給食を除けば地面に生えているキノコである。奴にはサキコなんて名前があるが、誰もそんな名前で奴を呼ぶことはない。苗字で呼ぶことも憚られた。なぜなら奴の苗字「山下」が、学年に何人もいるからだ。奴のことを「山下」と呼ぶのは、他の山下氏に大変失礼である。そこで僕が提案したのが「ザキ子」だった。ゲームの中にある一撃必殺魔法の名前にヒントを得た。
 ザキ子と、僕は中学1年を同じクラスで過ごし(!)、中学2年は別々のクラスになったものの、ザキ子の名は1組から遠く離れた7組にまで及び、僕たちはとにかく話題に飢えるということを知らなかった。宿題の話をしてはザキ子の話になり、野球の話をしてはザキ子の噂になり、掃除をサボりながらザキ子を取り巻く環境について想像を膨らませた。

 「幸せは長続きしないものだよ、藤沢くん」
 中学3年の4月5日に放たれた僕の台詞である。主語を必要としない僕たちであったので、藤沢はすぐさま
 「最悪。ザキ子と同じかよ」
 と答えた。僕は、よよよ、と藤沢くんに倒れ掛かると、「キモいからそれヤメ。それ1K(ワンケー)」と、押し返された。1Kとは僕もタチが悪い、と愚を吐きつつ、「3年2組はザキで全滅ですね」と、感想を投げかけた。けれど僕の呼びかけにきちんと答えたのは両手で数えられるくらいのごく少数で、つまらない、退屈だ。僕の右足が廊下の壁を蹴る。窓の外はもうほとんど葉桜となりつつあり、チェッ…。

 ところが意外な展開が僕を待ち受けていたのである。

 「山下咲子です」
 おかしいと思っていたのだ。いるはずの奴がいなくて、存在しない人間がいる。
 「山下咲子さん?」
 僕だけではないのか、そうか先生も。
 「…?…はい。趣味は読書です」
 先生だけじゃない、どうやらそれは僕だけではなく、僕たち全員であるようだ。たったひとり「山下咲子」を除いて。
 当の「山下咲子」は、少し首を傾げると、肩までの黒髪に春の光を浴びて、幻想的な風をもって、席に着く。異質だ。と、いうより、あなたは誰だ。
 その女生徒に声をかけることが出来ないまま45分の学級活動時間が過ぎる。僕は10分の小休憩時間、刺客を放つ。部活で同じ体育館を使うためなりゆきで仲が良い女子、木村。こいつの風紀委員的存在感が刺客には丁度良い。
 刺客木村は休憩時間、山下咲子に声をかけていた。その10分、僕たちは新しい教科書を覗きながら3年で修学する内容について嘆きの言葉を交わしていたが、僕、心、此処に在らず。一番窓際の春風吹けるあの席に。
 2時間目、学級委員選挙。退屈なのでそれと僕とは無縁である。斜め前の席に座っている木村に「風紀の女子、オマエやれよ」と言っておく。適当に仲の良い奴を管理職的委員に置いておくと何かと楽だ。そういう僕に「もうやりたくないよ」と、振り向きながら、木村は言ったのだ。
 「あれさぁ、やっぱりザキ子だよ。去年1組だったって言うし、タエコたちが去年ザキ子のセーラーにつけた落書き、まだ少し残ってるし」
 物的証拠。
 しかし一体どんなマジックを使って、ザキ子はあんな美人になったのか。

 髪の長さは変わらない、顔のパーツが変わった気配もない。しかし黒髪はあんなに艶やかだったか?冬服のセーラーから覗く透き通るような肌はほんのり桜色であり、その頬も、口元も。そのくせ風が吹けば消えてしまいそうな儚げ感。退屈な日々に木漏れ日。僕はザキ子改め山下咲子が一人帰ろうとするのを呼び止めた。


 4組になった藤沢と松崎が噂を聞いてやってきたのは離任式の終わった直後。世界が狭いと情報は早くそして正確。
 「ザキ子と付き合い始めたって、ネタ?」
 僕はニヤニヤする。このニヤニヤがつまらない奴等の得意技であることを知っていながらニヤニヤしてみせる。
 「ザキ子死す」
 そう言うと、咲子を呼んで、藤沢たちに見せる。
 「僕の彼女の咲子さんです」


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 その他の中学3年男子とは一線を画して「彼女持ち」になった僕は1週間もしないうちに学年のVIPになった。今ザキ子は消え、代わりに老若男女問わずに注目する突然の美少女、山下咲子がいるのであり、そいつこそ僕の彼女であった。
 どうして咲子に付き合いを申し出たのかということについて、僕は時々考えてみたが、それは、早く手にしないと奪われる、消えてしまうという根拠のない焦燥感。
 僕は咲子と帰り道をともにし、給食もともにしていたが、咲子はほとんど何も語らず、儚げに目線を少し落としてため息をつくばかり。それでもいい、というか、それがなお良い。ミステリアスな女に惹かれるという思春期にありがちな僕たちの法則。僕は色々聞きたい衝動にも駆られることもあったが、なにぶん背伸びしたい年頃、語らない咲子に合わせて僕も無口でクールな大人の男を演じた。松崎が前から誘っていたタバコを、部活前に初めて吸ってみる。僕の大人度数は確実にアップ。それが背伸びでしかないということは、教師に言われずとも僕たちはわかっていたが、背伸びすることにすら石橋を叩かねばいけないつまらない連中よりずっとマシだ。僕たちは背伸びの仕方を知っていたし、背伸びの目標指数まで持っていた。

 僕はもう少し大人になりたかった。僕はある日咲子にキスをさせてくれと頼んだ。ザキ子の消滅から1週間も経たない、驚くほどのハイスピード。けれど僕は咲子を一刻も早く手に入れたかった。消えてしまう前に全てを手にしたかったのだ。
 大抵の場合、無口で意思を見せない咲子は僕の言いなりだった。来いと言えば来たし、授業が終わったら待ってろと言えば待っていたし、僕の意に反することはしなかった。なのでキスも簡単だと思ったのだ。僕の頭の中では、翌日朝礼の最中に隣のクラスに並んでいる藤沢に「昨日キスした」と言い「やっちゃった?」と聞かれ「やっちゃった」と答える僕が想定されており、ミステリアス美少女・山下咲子を攻略した者としてさらに学年の中で特別な位置につく僕が予想されていた。
 ところが、咲子は強く拒否をした。黒いというより赤茶がかった瞳を大きくして、恐らく自己紹介以来初めて聞く声で「嫌です」と叫んだ。僕は腹が立った。僕と咲子は付き合っているのだ。だからキスをしようと何をしようと、仕方がないじゃないか。僕は咲子の腕をつかんだ。映画やドラマのように彼女を抱き寄せ強引に唇を奪えばいいと思った。僕は必死になった。咲子は嫌がり、僕から逃げようとする。じゃあ、付き合わなければ良かったのだ。オマエがそれを選択したことが間違っていたのだ、今更引き返せないということくらい理解しろよ、
 「、ザキ子!」
 僕は叫んでいた。
 一瞬飛ぶ意識。


はるさめのふるはなみだかさくらはなちるをおしまぬひとしなければ


 意識を戻すと、目の前に強引に近づけたザキ子の唇が、はらはらと、はがれ始めていた。薄紅の、桜色の、唇が。
 よくよく見ると、唇だけではない。ザキ子の全身から、はらはらと、散りゆくものがあるのだった。それは桜色の。まるで白雪が降るように。
 錯覚かと思う。ひきつけられるような桜色が散った後にザキ子の体が見せるものは、まるで剥き出しの樹木のような紅茶色と、ところどころにある緑の点々。
 ザキ子伝説が僕の中に蘇る。Kurai・Kitanai・Kimochiwarui=3K。主食はキノコ、菌類であり、しかも腐ったものばかりであり、菌類ばかりを食べるザキ子の体は菌類に侵されてカビだらけである。むしろザキ子自身がカビで構成されている。
 美しかった山下咲子は、その名残を少し見せていたが、今僕の目の前にあるものは、どちらかというとザキ子であり、大目に見てもザキ子であり、やはりザキ子である。
 僕は無言で走り去った。キスなどしなくて良かった!僕の美しい大切な大人への入り口が、もれなくカビで汚されるところであった。いや、もう汚されているのかもしれない。吐き気がした。ふと腕時計を見ると、僕が山下咲子にキスを迫った時間から5分ほど前の時刻を指しており、ザキ子の磁力が時計を狂わせた、時計が壊れた。そう思って溝に時計を捨てて家に帰ると、母が玄関で僕を待ち構えており、突然僕を平手打ちしたのだ。
 「1日どこへ行ってたの」

 僕とザキ子は、1日学校を休んでいた。時計が狂ったのではなく、僕は23時間と55分ほど、まったくすべての記憶を失っていたのだ。
 僕は翌日優等生みたいな顔をして朝から職員室に行ったが「1日の記憶がないんです」と言っても信じてはもらえなかった。そして生活指導の教師は「山下咲子と何をしていた」と僕に詰め寄る。僕が「山下さんとは何もしていません」と言っても受入れられず、突然始める説教「若いうちは気持がはやることもあるが中学生としてまた受験生であるという自覚をもった行動をしていかなければ今後の受験生活に支障が出るどころか今後社会に出て一社会人として活動をしていく際にも問題が生じ先生はオマエのことを出来る奴だと思っているしオマエがその気になれば」もういい「山下は大人しいし女の子だから抵抗もなかったかもしれないがもっと思いやりを持てるようにならないといけないしそういった行動は一人前の大人になって自立できるようになってからでないと」
 「気持ち悪いからやめろ」
 本気で教師に食ってかかっていた。僕は頭の悪い不良一派でもないのだから、教師に対して本気の態度なんて見せたことがなかったし、あんなものいちいち相手にするほうがおかしいと思っていたが、吐き気は抑えきれず、僕は教師の胸倉をつかんでいた。張り倒される。冷静ないつもの僕であれば「教育委員会に訴えておきます」と言ってやるところだが、その時僕は冷静のれの字も見当たらず、吐き気を催し、我慢しきれずその場で吐いた。それは「教師の体罰が招いた結果である」として後ほど職員会議で問題になったらしいから僕は案外冷静だったのかもしれない。
 時間を置いて、ザキ子が職員室にやってきた。僕はうろたえ、「気持ち悪いので横にならせてください」と保健室に行くことを望んだが、教師が!頭の悪い教師が!僕が保健室に行くのをサボるつもりだと決め付けて、 横になるなら職員室のソファを使え、とソファに寝かされた。これはこれで悪くはないが、畜生。タバコの臭いがしみついていて吐き気に拍車。
 ザキ子をちらりと見て、僕は異様な恐怖心を感じた。奴の体は、僕が覚えている「1日前」の奴は、桜色の肌であったというのに。ザキ子は、全身にぽつぽつと緑の点を見せていた。僕が逃げ出したあの日より増えている。カビだ。病気だ。気持ち悪い。僕にもうつったかもしれない。教師たちもそれに驚いているようであったが、あまりの出来事に声もかけられなかったらしく「どうして無断で休んだの」などと戸惑い勝ちなその声の裏を僕はわかっているぞ。どうやらこの事態をわかっていないのは、たった1人、ザキ子だけ。

 僕は大学病院まで精密検査に行くものの、何の異常もなかった。
 数日後、ずっと学校を休んでいたザキ子が入院したと聞くものの、病名などはわからないそうだった。

 僕は藤沢たちにいやらしいニヤニヤした顔をもらった。早く手を出したオマエが悪いんだと言わんばかりの態度。僕と彼らの間に一本細い溝が出来ている。細いけれどずいぶん深い。
 「あれさぁ、全部ネタだったんだって」
 僕がザキ子と付き合っていた過去を払拭しようとしても、藤沢や松崎はすぐに掘り返し「幸せいっぱいだったよね」と嫌味な言葉を返す。
 手っ取り早く僕は僕に気を持っていそうだった木村と付き合うことにした。哀れな素振りをしていたら結構簡単に木村はひっかかった。風紀委員然としたその性格で君はこれからも苦労することだろう、僕はそう思ったが決して口には出さない。
 大して好意も持っていなかったからか、木村との付き合いはだらだらと続いたけれど、幻想の山下咲子に感じたような欲望は起きなかった。木村はうるさい女で、授業中に手紙をまわしてきたり、荷物チェックの時に僕だけ見逃す代わりに今度動物園に行こうだとか、むしゃくしゃしていたから僕は木村を相手に中学時代にキスもセックスも済ませてしまった。木村と付き合うことによって藤沢たちとの関係も修復したように見えたけれど見た目だけで、僕と彼等の間には到底埋めることのできない細い溝が一本。進級から1週間ほどで簡単に僕は色々なものを失ったのだ。僕は「僕たち」という呼称を失くしてしまった。

 高校は中学の連中がいないところに行こうと決めた。木村は成績が落ち、一度木村母が僕の家に怒鳴り込みに来たことがあったが、僕は「僕たちは真剣な交際をしています」と表面的にのたまい、それよりも木村が「私が悪いんだから、怒らないで」と泣いていたのでたいした実被害を受けなかった。
 猛勉強をした僕は難関校にたった1人で合格し、高校で新しく彼女を作ると、木村からの連絡を一切受け付けないようにして、関係を終わらせた。


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 ――それから10年が経った。
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儚げに移ろう人の感情を嘲るように桜は常代


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 それは会社での花見の後だった。後片付けをしなければならないのでほとんど酒にありつけなかった僕は、ぐでぐでに酔った女性新入社員を介抱しながら、ふと桜を見上げた。桜といっても、例年通り今年も桜は3月中に咲いてしまい、4月にはすっかり葉桜となっていた。退屈だ、つまらない、と思っていた時期を僕は抜け、アウトロー気取りの年齢も過ぎ、無難な生き方を僕は望んでいた。葉桜でも桜は桜だ、と思っていた。10年前「つまらない」と壁を蹴った右足は、着実な人生を歩むために地面をしっかり踏んでいた。
 酔っ払った女性新入社員に手を出してしまおうかと軽く思った矢先に、突然記憶は蘇った。
 はらはらと散る桜色。代わりに出てくる緑。葉桜。

 花見の翌日、土曜日の午前、いつもは昼まで寝ているところを早起きした。「ザキ子」のその後の消息を僕は全く知らなかった。けれど、あの時「ザキ子」が入院したあの大学病院に僕は足を向かわせた。別に向かう必要もなかったが。いてもたってもいられなかった。大学病院に着くと、予想される展開を頭で反復した。僕が受付で「山下咲子さんの部屋はどこですか」と尋ねる。受付は「そんな人はいない」と言う。僕は「病院を間違えました」と恥かしそうに頭を掻いて病院を出る。そして「あの記憶は若い頃にありがちな妄想から派生した偽の記憶である、そうだ、正しい記憶情報など存在しない」と自分に言い聞かせ、いつもの生活を送る。それでいい。それがいい。
 けれど受付嬢は「お名前お伺いします」と言うと僕の名前をメモし、どこかに電話した。
 …いるのか。
 「すみません、会社から呼び出しが…お大事にとお伝えください」という言葉が頭の中で繰り返されるのだが、僕の喉は渇いて言葉が出ない。
 しばらくすると受付嬢は体をこちらに向けて、笑顔で
 「精神病棟103号室になります」。
 …いるのだ。
 103号室は地下にある。地下というより、受付・待合室が2階にあると言ったほうが正しいのか。階段を下りて、さらに突き当たりまで進むと、「103号室 山下咲子」という表札が見えた。
 「どうぞ」
 案内の看護婦が扉を開けた。途端、むせかえるような香り。この香りは桜。6畳程度のその病室の床は、雪のように積もった桜の花びらでいっぱいであった。そして、ベッドの上には、緑の物体。ザキ子だ。
 光速で襲い掛かる記憶。僕は立ち去ろうとする看護婦に「10分経ったら教えてください。迎えに来てください」とすがりつくように頼んだ。看護婦はごく普通に「はいはい」と言ってどこかに行った。
 扉が閉められた。数枚の花びらが、扉から出て行った。
 僕の1人取り残された感。
 予想以上にうろたえている僕は売店で買った「お見舞い用」の花を差し出そうとするが、その花の香りすら消されてしまうような桜の香り。怖い。
 「言いたいことがあったの」
 聞き覚えのある声が、ベッドの上からした。恐る恐る近づくと、そこには、中学生の頃そのままのザキ子がいた。ザキ子の体は、輝けるほどの新緑。黒髪の影すら見えない。僕はつい、バランスを崩して倒れる。「お見舞い用」はパサリ、かすかな音を立てて崩るる。
その緑に染まった体の奥に、紅色のような茶色のような色を覗かせて、ザキ子はこちらを見つめる。緑色の唇がはっきりと動き、奴の瞳はひどく輝いた。まるで5月の日差しであった。
 「私の名前はザキ子じゃなく、山下咲子」
 艶やかな桜は春雨に流され、光る緑が力強く残るのだということを――。


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 気がつけば僕は女性新入社員のからだを支えながら葉桜の下に立っていた。これは花見の帰り。大学病院は一瞬の夢だったのか。思った以上に酒がまわっていたのか。僕は新人の唇に伸ばしかけた手を戻し、それからもういちど、唇に指を乗せた。彼女が目を覚ます。少し驚いたように「何ですか」と言う。僕は唇に置いた指をそのままにして、その唇にかかっていたひとひらの桜を、取って、捨てる。「唇に桜ついてたよ」。立てる?と聞くと、彼女はどうにか立って歩いたので、僕は「駅まで送るよ」と彼女の少し後ろを歩いた。
 道すがら見る桜並木はやはりどれも葉桜で、ときに名残雪のようにはらりと降る。彼女はその花びらを手に受けて、立ち止まり、また歩き始める。散る桜に足をとどめてはいけない。散り際の桜は、どうやら怨念めいたものを残していくのだ。
 駅に着いた彼女は、少し酔いが冷めたのか。頭を下げながら「申し訳ありません、お名前お伺いしてもよろしいですか」と僕に尋ねた。僕は軽く答え、ようとした。ところが名前が出てこなかった。答えようとしない僕を怪訝そうに見つめ、彼女は「また、会社で」と言い残して電車に乗った。
 酒のせいだと思った。けれど次の日になっても僕は名前が思い出せない。ひとまず小学校、中学校、高校、大学の卒業アルバムを見る。僕の写真はあるのに、僕の名前は空白である。僕の住所は載っているのに僕の名前は空白である。中学3年の卒業写真。左上に丸く一人で映っている女生徒に対応するように、「山下咲子」という名前がある。僕の姿もある。けれど僕の名前はない。
 今日は何曜日だ?土曜日だ。花見の翌日だ。間違いはない。僕は大学病院に行ったか?行っていない。大学病院に行ったのは花見の翌日の土曜日だ。今日は何曜日か?土曜日だ。花見の翌日。大学病院、行っていない。あれは夢。
 僕は友人に電話する。冗談交じりに「俺の名前フルネームで言ってみて」。笑い声の後に「オマエの名前はさぁ」、と、突然の香り、「山下咲子」。それは中学生女子の声。
 家を飛び出す。表札を見る。苗字がない。表札はあるのに苗字がない。父と母の名前は刻まれているのに僕の名前だけがない。
 大学病院に行く。「山下咲子さんのお部屋は」「そんな患者さん、いませんけど」。
 僕は走り去り、薬局で睡眠薬を買い、眠る。起きる。新聞は日曜版。携帯電話の日付は日曜日。表に出る。表札に僕の名前はない。僕はまた眠る。起きる。月曜日。新聞も、ニュースも、ラジオも、朝の光景も全て月曜日。「母さん。俺の名前って何だっけ」、母が笑う。僕はしつこく尋ねる。母は眉をひそめる。僕は尋ねる。母が口を開く。花の香。「山下咲子」。中学生女子!
 会社に行く。タイムカード。僕の名前はどこにも見当たらず、けれど、ひとつ、「山下咲子」というカードがある。
 僕は友人に電話する。出ない。通勤途中だから当たり前か、そう思うけれど心配で、別の友人にダイヤルする。つながらない。別の友人に電話しようと発信履歴を見る。空白。番号も、名前も空白。僕はたしかに電話したのだ、それもごく最近。けれど全て空白。メモリを見る。真っ白。メモリナンバーは表示されるのに。番号も、名前も、見えない。
 花の香りを…桜の香りを感じて顔をあげる。そこは会社ではなく、桜の花びらばかりが舞う場所。桜の花びらが舞い散っているのに、肝心の桜は見えない。桜がないのに、桜が散っている。この桜はどこから散っているのか、僕は全くわからない。僕だけわからない。
 そうだ、前にもこんな風に、誰かひとりだけ、わかっていないことがあった。あれは中学3年の春だ。あいつだけがわかっていなかったのだ。自分の変化を。けれど周りは知っていて。僕は何となく気がついた。
 あまりに桜が吹き荒れるので僕はしっかり見えなかったが僕はしっかり僕の手を見ると、やはり僕の体から桜は散っているのだ。

花となりわが身散りゆくその後に僕はとびきり緑を願う

 止まることを知らない。僕の体から吹き荒れる桜は止まらない。僕はあの日のあいつを思い出す。どんどん緑になっていったあいつを。僕は緑になるのを望んだ。緑が僕に芽吹くことを望んだ。けれど僕は、僕の体は、今もなおずっと散るばかりで、緑が芽吹く様子はどこにもないのだ。5月の新緑は僕から出て来ないのだ。「僕」は今、一体どこにいるのだろうな?




――時も、場所も定かではないが、こんな景色をあるそうだ。15歳くらいの少年が、桜の木の下にずっといる。少年はときに桜に話しかけ、桜の木を邪険にし、けれどそこから動くことはなく、桜の木とずっと一緒にいるそうだ。誰が見たわけでも、どこで見たわけでもないが――


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文中「はるさめのふるはなみだかさくらはなちるをおしまぬひとしなければ」は大友黒主(古今和歌集)によるもの。

つな缶。 / とびたつな