広がる赤

 とおくふるいきおく。
 すべてがおぼろげにかすむ、いろあせたせかい。
 げんそうとげんえいのむこうがわ。

     ※     ※     ※

 弟が生まれてから、ママは変わってしまった。
 それまで、ボクだけに向けられていた愛情。
 春の陽だまりのような、暖かな笑顔。
 今では、色褪せた過去にすぎない。
 変化は急速で、滑稽ですらあった。
 それまでの日々が、まるで刹那の幻想に思える。
 すべては、“あの人”がやって来た時から始まった。
 ママの隣で、にこやかに微笑む男の人は、それまで一度も見たことのない人だった。
「――はじめまして。これから、ヨロシクね」 
 なぜだろう、告げるコトバは優しいのに、ボクを見る目はどこか冷たかった。
 どこか酷薄そうな、値踏みするような視線に、ボクは思わず目を逸らした。
 ママは言う。
「ほら、新しいパパに挨拶しなさい」
 媚びながら、諭す態度。
 そんなママを見たのは、ボクは初めてで驚いてしまった。
 突然の変化にボクだけが取り残され、それでも時間は流れ続ける。
 “あの人”のことを素直にパパと呼べないボク。
 ボクの存在を、露骨に無視し始める新しいパパ。
 ボクを見つめるママの目が、次第に険しいモノに変わっていき――そして弟が生まれた。
 弟の誕生は、ボクも嬉しかった。
 まだ小さな弟が成長し、大きくなって一緒に遊ぶ時が待ち遠しい。
 しかし、弟が生まれたことで、両親の関心は完全にボクから離れてしまった。 
 ボクは、ただそこにいるだけの存在でしかない。
「ねぇ、ママ、あのね……」
「悪いけど、忙しいの」
「きょうね、がっこうでね……」
「ちょっと手が離せないのよ」
「あのね、あのね、あのねママ――」
「うるさいって言っているでしょう!!」
 他愛のないことで、怒鳴られる。
 時に、手を上げられることも珍しくなかった。
 春の陽だまりのように、優しかったママはそこにいない。
 些細なことで、ママはボクにツラく当たる。
 ……ボクは、何をしたんだろう。
 ……ボクが、何をしたんだろう。
 わからない。
 わからないまま、時間は流れ始める。
 ……いつからだろう、ボクは笑わなくなっていた。
 ……いつからだろう、ボクは話さなくなっていた。
 セカイは暗く退屈で、ボクの周りには色がない。
 どれだけボクが笑いかけても、ママは応えてくれない。
 どれだけボクが話しかけても、ママは答えてくれない。
 笑うと薄気味悪いと殴られる。
 話すとうるさいと怒鳴られる。
 それは、日に日にエスカレートしていくようだった。
 孤独広がっていく――。

     ※     ※     ※

「どうして、これが食べられないのっ!!」
 その日も、ママの怒号がボクの耳に響いていた。
 たまたま機嫌が悪かったせいもあるのだろう。
 新しい環境、育児のストレス。
 怒りをぶつける相手が欲しかったのかもしれない。
 ……ただ、ボクが憎らしいだけ。
 ママの様子に、ボクはただ身体を固くした。
 驚きと恐怖に、ガタガタと身体が震える。
 見つめる視線の先は、赤く熟れた真っ赤なトマト。
 ボクが苦手で、どれだけガンバっても食べられないモノ。
 ママだって、そんなこと、とっくに知っているハズだ。
 以前なら、「仕方がないわね」と笑って許してくれたハズだ。
 だけど、今は違う。
 ママは変わってしまったのだから。
「どうして、食べられないのよっ!?」
「あ……う……うぅ……」
 詰め寄るママの剣幕に、ボクは答えようとするのだけど、コトバは喉から出てこない。
 自分でも、もどかしいくらい。
 動揺した意識が、完全にパニックを起こしてる。
 考えてみれば、ママと話す時は、いつもこんな風に何も言えなくなってしまっていた。
 ただ唇をギュッと噛み締め、流れそうになる涙をグッと堪える。
 そんなボクの態度に、ママは怒りを爆発させた。
 癇癪を起こして、ボクに詰めかかる。
 ――激しい衝撃。
 ――記憶の喪失。
 セカイは刹那、色を失う。
「食べられるまで、そこにいなさいっ!!」
 気がつくと、ボクは真っ暗なベランダに放り出されていた。
 春とはいえ、夜はまだまだ寒い。
 騒ごうとは思わなかった。
 前にそうした時、こっぴどく叱られたコトを憶えているからだ。
 ボクは震える身体を抱きしめながら、そっと空を見上げた。
 真っ暗な空。
 彼方で輝く星たちの光。
 厚い雲の向こう、はるか遠くで瞬く光は、あまりに小さく、あまりに遠い。
 ひどく悲しい気分になった。
 窓の中では、幼い弟を挟んで談笑する両親の笑顔。
 ……それは、あまりに小さく、あまりに遠い。
 ボクの居場所は、そこにはない。
 孤独が広がっていく――。
 見つめるのがツラくて悲しくて、ボクはベランダから下を覗き込んだ。
 高層マンションの下層にあるとはいえ、地上まではかなりの高さがある。
 闇に包まれた地面は真っ暗で、そこにボクはたまらない孤独を感じた。
 ――ああ、このセカイには色がない。
――ああ、ボクの未来には色がない。
 静かに小さな手を握り締める。
 ボクの手には、ママに渡された真っ赤なトマトが握られていた。
 嫌らしいほどに赤く、憎らしいほどに赤い。
 赤い赤い、真っ赤なトマト。
 気がつくと、ボクは手にしたトマトを地面へと放り投げていた。
 色のないセカイに、唯一の色彩が宙を舞う。
 それはゆっくりと放物線を描くと、次の瞬間、地面へと激突した。
 グシャ。
 かすかな音を聞いた気がした。
 そして、広がる鮮やかな色。
 ――赤。
 闇に貼りついた赤の、何と眩しく映えることか。
 それは、一言で言えば衝撃だった。
 色の絶えたボクのセカイに、目映い赤が激しく焼き突く。
 広がる赤に、ボクの心は恍惚となった。
 広がる赤に、ボクの魂は恍惚となった。
 理由はわからない。
 ただ、広がる赤は、孤独に震えるボクの中に、確かな何かを刻み込んだようだった。
 ……それからだ。
 ボクは、ことある度にベランダに向かうと、トマトを投げるようになった。
 まるで神聖な儀式を行うように、人目を忍んで行うボクだけの秘密。
 かすかな潰れた音と、次の瞬間に飛び散る戦慄の色彩。
 ――赤。
 ――赤。
 ――赤。
 赤が、広がる。
 ボクは、すっかりトマトが好きになっていた。
 トマトよりも、飛び散る赤に夢中になった。
 それを繰り返すうち、ボクの中で膨れ上がる欲求はさらに激しいモノになっていた。
 突き動かす衝動に、ボクはすっかり酔いしれていた。
 ……もっと、さらなる赤を。
 ……もっと、鮮やかな赤を。
 思いつくばかりの赤を脳裏に描き、投げつけ、新たな赤を求めていく。
 それを行うことで、ボクは孤独から逃れ、恍惚のセカイへと旅立つことができるのだ。

     ※     ※     ※

 ある日、近所に生まれたばかりの子猫が捨てられていた。
 ダンボールの中に捨てられた子猫は、まだ目も開いていないほど小さかった。
 愛らしい姿、かすかに洩れる、かぼそい鳴き声。
 子猫もまた孤独なのだと思った。
 セカイから隔離された、一つの存在。
 それは、まるでボクと同じ。
 だから、ボクはこっそりと子猫を拾い上げると、一目散に家へと急いだ。
 幸い、ママは留守にしているようだった。
 見渡してみても、部屋にいるのは、小さなベッドで眠る弟が一人。
 ボクは、嬉々として子猫を家に連れ込んだ。
 そのまま、迷うことなくベランダへと向かう。
 細心の注意を払い、周囲を確認してからベランダに立つ。
 辺りには、誰の姿もない。
 地面には、誰の姿もない。
 ……ならば、そこはボクだけのセカイ。
 ボクだけの魂のキャンパスだ。
 ボクの手の中で、小さな鳴き声を洩らす子猫。
 愛らしい舌で、ボクの手をペロペロと舐める。
 ああ、ボクはもう興奮を隠し切れない。
 突き動かす衝動に、我慢することができない。
 ――新たな赤への、激しいまでの切望。
 ――広がる赤への、狂おしいほどの熱望。
 この手にあるモノの、広がる赤はどれほどキレイで愛らしいのか……。
 ぐびり、喉が鳴る。
 ボクは優しく子猫を抱き上げると、躊躇いもなくそれを地面へと放り投げた。
 刹那の空中浮遊。
 子猫が見事に空を飛ぶ。
 生物としての本能か、子猫はバランスを取ろうとするのだが、それだけだった。
 拙い子猫の動きでは、もがくだけが限界だった。
 グシャッ。
 トマトよりも大きな音を立てて、子猫は潰れ、目映い赤があふれ出す。
 流れる色彩に、ボクは目を離すことができない。
 ……赤が、広がる。
 ゾクゾクした。
 身体中の細胞という細胞が奮い立つ感覚。
 絶頂感に似た快楽と恍惚に、ボクはしばし我を忘れた。
 ――広がる赤。
 ――眩しい赤。
 すべてが朧ろげに霞んで見えるボクのセカイで、ただ一つの絶対の色彩。
 それはボクの魂を啄み、貪り、すべてを支配していた。
 ……もっと。
 ……もっと。
 高らかに空に手を伸ばし、ボクは懇願する。
 ――もっと、さらなる赤をっ!!
 鮮やかな赤を求めて、ボクは狂おしいばかりに頭を抱えた。 
 欲望は膨れ上がり、願望は果てがなく、欲望はこの瞬間にも爆発しそうになる。
 落ち着かない。
 どうにかなってしまいそうだ。
 コノママデハ、ボクハコワレテシマウ。
 モシカシタラ、ボクハコワレテシマッタノカモシレナイ。
 新たな赤を求めるボクの目に、すやすやと寝息を洩らす弟の姿が飛び込んできた。
 ベッドに横たわる弟の姿はあどけなく穏やかで、天使のように愛らしい。
 ボクは、弟が好きだった。
 まだ小さな弟が成長し、大きくなって一緒に遊ぶ時が待ち遠しい。
 だけど、弟が生まれたことで、両親の関心は完全にボクから離れてしまった。 
 ボクは、ただそこにいるだけの存在でしかない。
 無価値で不要な、孤独の存在。
 それは、なぜ……。
 弟の寝顔から、ボクは目を逸らすことができなかった。
 ――天使の持つ赤を、ボクは心から見たいと思った。
 ただ、それだけ。
 本当に、それだけ。
 膨れ上がる欲望に、ボクは自分を抑えることができない。
 突き動かす衝動に、ボクは素直に行動した。
 眠ったままの弟をベッドから持ち上げると、その重さに少しよろめいた。
 ふらつく足で、ペランダへと向かう。
 ボクの腕の中で、弟は静かな寝息を洩らしている。
 その顔は、まるで天使のように愛らしい。
 その顔は、まるで天使のように憎らしい。
 心が躍る。
 魂が震える。
 ボクの手から、天使は空へと翼を広げた。
 空中に漂う時間は一瞬で、その姿はすぐにボクの視界から消えた。
 ……天使は、召されるべくして地上に降りてきたのかもしれない。
 グジャッ。
 遅れて響く、鈍い衝撃音。
 砕け散る幻想、甦る現実。
 ――広がる赤。
 鮮やかな赤は、ボクが想像した以上にキレイで、地上に確かな痕跡を刻み込んだ。
 魅入られたように、見惚れたように、ボクは天使の赤から目を離すことができない。
 身体中の細胞という細胞が奮い立つ。
 意識という意識、魂の根源までもが揺さぶられる絶頂と快楽。
 そして……解放。

     ※     ※     ※

 どれほどの時間が流れたのだろう。
 恍惚に染まるボクのセカイを、甲高い悲鳴が打ち砕いた。
 通りがかった誰かが、地面に広がる赤に気がついたらしい。
 その色彩の正体も。
 悲鳴は人々を呼び寄せ、さらなる怒号と喧騒を引き寄せる。
 眼下に、大勢の人々が集まってくる。
 誰もが激しく興奮し、口々に何かを叫んでいる。
 それを見て、ボクはひどく誇らしい気分になった。
 ……ねぇ、それを作ったのはボクなんだよ。
 ……すごいでしょう、とてもキレイだよね。
 うっとりとした笑みを浮かべて、ボクは地上を見下ろしている。
 やがて、そこに見慣れたママの姿を見つけた。
 連絡を受けて駆けつけたらしいママの形相は、なぜか喜んでいるようには見えなかった。
 激しく取り乱し、赤に染まる弟の身体を抱きしめると、天を仰いで絶叫した。
 見上げる先、ベランダの向こう――そこに、ボクはいた。
 ママとボクの視線が重なり合う。
 ボクは、嬉しくなってにっこりと微笑んだ。
 だって、ママがまっすぐにボクを見つめてくれるなんて、ホント久しぶりだったから。
 とても、暖かな気分。
 ボクの笑顔に、ママは何が起こったのか、瞬間に理解したらしい。
 捨てられたトマト。
 捨てられた子猫。
 捨てられた弟。
 ……捨てられた、ボクの心。
 ほどなくして、ママの姿はベランダにあった。
 来ると信じていた。
 ボクのもとへ、帰ってきてくれると信じていた。
 だから、ボクはお利口にして待っていた。
 べっとりと弟の赤が貼りついたシャツ。
 ボクを見つめる、血走った赤い瞳。
 それもまたキレイだな、ぼんやりとボクは思った。
 真正面から、ボクとママは見つめ合う。
 恥ずかしいような、もどかしいような、たまらなく幸せな気分。
 だから、ボクは無邪気に微笑んだ。
 心の底から無垢に純粋に、ただ嬉しくて。
 それが、どのようにママに映ったのかわからない。
 ママの表情は冷たく、その唇は血が滲むほどキツく噛み締められている。
 赤い赤い唇。
「あ……あ……あ……ああ……」
 ママは、ボクに何かを告げようとするのだけど、コトバは声にならない。
 その仕草は、まるで叱られたボクのようで、何だかおかしかった。
 まるで壊れた人形のように立ち尽くすママ。
「……あ……あぁ……」
 やがて、ママはのろのろとした動きで、ゆっくりとボクの元へと歩み寄ってきた。
 嬉しくなって、ボクは微笑みながらママの到来を待った。
 けれど、ママは待ちわびるボクの隣を通り抜けると、そのままベランダの柵へと進む。
 惚けた表情には何の感情も映っていない。
 虚ろな瞳には、すでに何も映っていない。
 ママは、ベランダから身を乗り出すようにして、眼下に広がる赤を眺めている。
 かつて、弟であったモノが描いた鮮やかな色彩。
 失った生命を取り戻そうとするように、ママは地上に何度も何度も手を差し伸べる。
 起こり得ない奇跡をユメ見て、流れる時間を呼び戻すように、弟の名を呼びながら。
 喉から激しい嗚咽が洩れ、見開かれた瞳からは涙が途切れることなくあふれ続ける。
 ――その目には、もはやボクの姿は映っていない。
 ボクは、それが不満だった。
 不安があった。
 もう二度と、ママがボクを見つめないのではないかという恐怖。
 もう二度と、ボクに関心を示さないのではないかという危機感。
 ……ボクは、ここにいるのに。
 ……ボクは、ここにいるんだよ。
 焦がれる気持ちを抑えきれず、ボクはママへと近づいた。
 そっと、ママの背に手を添える。
 ――ボクは、ここにいるんだよ。 
 そのことに、ちゃんと気がついて欲しかった。
 ただそこにあるだけの存在ではなく。
 生きて話して笑っていられる、確かな存在として、ママに知って欲しかった。
 ただ、それだけだったのに……。
 身を乗り出すようにしていたママの身体は、加えられたわずかな力に耐えられなかった。
 バランスが、崩れる。
 ママの身体が、ゆっくりと空へと投げ出される。
 まるで吸い寄せられるかのように、驚くほど自然に、ママの身体は空を舞った。
 落ちて行くママの視線と、見つめるボクの視線が重なった。
 口許に浮かぶ、恍惚の微笑。
 階下に集まっていた群衆から、一際大きな悲鳴が洩れた。
 グジャッ。
 鳴り響く破裂音。
 砕け散る偶像の象徴。
 ――赤が広がる。
 見下ろす赤の、何とキレイなことだろう。
 流れ出す赤の、何と鮮やかなことだろう。
 それは、何よりも誰よりも、一際美しくボクには感じた。
 ……だって、たまらなく大好きなママの赤なのだから。
 戦慄と興奮が、ボクの身体を包み込む。
 ガクガクと、魂が震えて涙がこぼれる。
 そして、理解した。
 そうか――ボクが本当に見たかったのは、この赤だったんだ。
 大好きなママの、目映い赤の前では、すべては偽りの装飾にすぎない。
「ふふふふ……ふふ……」
 知らず、ボクの口から愉悦の声が洩れた。
 何だか、ひどく嬉しい気分。
 すべてから解放されたような、透明の風がボクの中を吹き抜けていく。
 あまりの恍惚とした爽快感に、ボクは堪えきれなくなって、その場でクルクルと舞った。
 心は軽やか。
 身体も軽い。
 今のボクなら、どこまでもどこまでも飛んで行けそうな気がした。
 そんな満たされた想いに、ボクは躊躇うことなく空を飛んだ。
 ベランダを乗り越え、果てしない空へ。
 すべての境界を、一瞬にして飛び越える。
 ――浮遊感。
 ――落下感。
 ――喪失感。
 ――充実感。
 すぐに訪れる現実と衝撃も、ボクの幻想を打ち破ることはできない。
 セカイは、大きな音を立てて弾けた。
 ぼんやりと視界は淡く霞み、意識が急激に遠のいていく。
 ボクのすべてはカタチを変えて、まだ見ぬ場所へと旅立ち始める。
 消え行くセカイで、ボクの脳裏に、最後まで焼きついて離れない色があった。
 絶対の色彩。
 ……それは、赤。

     ※     ※     ※

「――それで、その男の子は死んじゃったの?」
「……さあ?」
 女の問いかけに、男は紫煙を吐き出して告げる。
「噂じゃ、奇跡的に助かって施設に収容されたとか、どこかの病院で植物人間になったまま

今も生きているとか、いろんなことを言われてるけど、詳しくはわからないね。
 まあ、一種の都市伝説みたいなモンだよ」
「ふ~ん……」
 それきり興味を失ったように、女は男の咥えている煙草を手に取り、口にした。
「でもさ、あんなことの後にする話にしては、あまりにもムードがないと思わない?」
 悪戯ッぽく微笑む。
 吐き出された細い煙が、ゆっくりと天井へと立ち昇って行く。
 ありふれたマンションの一室。
 情事を終えた、けだるい雰囲気が室内に色濃く残っている。
「はははっ、違いない」
 男はおかしそうに一笑すると
「……でさ、実はその話には続きがあるんだよ」
「興味ないわ」
「まあ、そう言わずにさ」
 ニヤニヤと口許を歪める。
 ふと、男の態度に女は奇妙な違和感を覚えた。
(あたし、この人とどこで知り合ったんだっけ?)
 曖昧な記憶を遡る。
 初対面の男を部屋に招き入れ、こんな関係になることは珍しくなかった。
 一夜だけの遊びと思えば、中々スリリングで興奮する。
 女に取って、それは珍しいことではなかった。
 もっとも、だからと違和感が消えることはない。
 頭の奥が、ぼんやりと霞んでしまったように、思考がまとまらない。
(……さっきの煙草に、ヤバめのクスリでも入ってたのかな……)
「ねぇ、聞いてる?」
 微睡む意識の中、男の声だけがぼんやりと響く。 
「……う、うん……」
「その男の子が住んでいたマンションなんだけど、不思議とその後も飛び降りが続いてさ。
 つまり、マンションのベランダの下には、無数の赤が描かれ続けているってワケ」
 ふと、真顔になり
「……知ってるかな?
 赤っていう色彩はひどく孤独な色でさ、常に仲間を求める習性があるってコトを。
 ――赤は、赤を呼ぶ。
 赤は絶えず赤を求め、多くのモノを狂わせる。
 だから、その大地に刻まれた赤は、今でも同じ赤を……血を求めてるのかもしれない」
「……あまり楽しい話じゃないわね」
「ああ。それじゃ、もっと楽しくない話をしてあげようか。
 赤を求める死神マンションの話だけど、それは実は似たような話がたくさんあるんだよ。
 さながら、現在の都市伝説だね。
 ……この街に、どれだけの数のマンションがあると思う?
 ……この街で、どれだけの数の投身者がいると思う?
 そのすべてが、自らの意思で空を飛んだとは決まっていないと思わないかな?
 ――赤は赤を呼び、大地は血を求めている。
 そんな因縁を持った部屋が土地が、一体どれだけあるんだろうね。
 ……そう言えば、この部屋、いくら夜にしても妙に薄暗い気がしないかい?」
 男のコトバに、女は背筋に冷たいモノを感じた。
「――変なコト言わないでよっ!」
「……例の男の子が飛んだマンション。
 ここがそうじゃないって、誰が言い切れると思う?」
「やめてってばっ!!」
 男の口調と剣幕に、たまらなくなって女は叫んだ。
 その様子を男は静かに見つめ
「……な~んてね」
 いかにも面白そうに吹き出した。
「はっはっはっ、冗談だよ、ジョーダン。
 これがホントの真っ赤な嘘ってヤツさ」
 間の抜けた駄洒落に、力が一気に抜けていく。
「……くだらない。ホント、くっだらないっ」
 確かな恐怖を感じていただけ、反発心が口調をキツくする。
「だいたい、赤が赤を呼ぶなんて、そんな話、初めてきいたわ。まるで、バカみたい。
 赤は、所詮ただの色じゃないの。
 色が意思を持って人を呼び込むだなんて、そんなおかしなコト、あるハズがないわっ!!」
 苦々しく吐き出すコトバに、男の唇にいやらしい微笑が広がった。
 口許に広がる、赤い赤い笑み。
 浮かび上がる、赤い三日月。
「――そうかなぁ?」
 悪寒が女の背筋を走り抜けた。
「……あんた、誰?」
 不意に、室内の電気が一斉に消えた。
 突然訪れた暗闇に、女の口から悲鳴が洩れる。
 ――フフフフ、フフフフフフ。
 頭の中に、直接響き渡る声。
 フフフフフ、フフフフフ……。
 鳴り響く哄笑に、思わず女は両手で耳を塞ぐ。
 瞬間、女の周囲を異変が襲った。
 壁という壁、床という床、天井に至るすぺての空間を、赤い手形が埋め尽くした。
 べっとりと、濃厚な赤を滴らせた手形。
 暗闇の中、赤がセカイを支配していく。
「きゃあああああぁぁぁぁぁぁ」
 ヒステリックな悲鳴を上げて、女は立ち上がった。
 裸であるにも関わらず、まっすぐに玄関へ向かうと、震える手でドアを摑む。
 ガチャ、ガチャ。
 しかし、無情にもドアは開こうとしなかった。
 鍵を外し、どれだけ力を加えても、結果は同じ。
 女を追うように、赤い手形が空間を埋め尽くしていく。
 フフフフフ、フフフフ……。
 耳許で、囁く哄笑。
 パニックに陥った女は、ひたすらに出口を求めて部屋の中を駆け回る。
 やがて、窓を抜け出し、ペランダへと向かった。
 女の身体は、勢いよくベランダさえも飛び越えていく。
 そして、天地が逆転した。
 グジャッ。
 辺りに響き渡る、重く鈍い破裂音。
 夜目にも鮮やかな色彩が、たっぷりと大地を染めていく。
 朧ろげな薄暗闇の中、それはたまらなく美しく思えた。

 ――赤が、広がる……。

えす・ますたべの城 / 高嶺俊