春の強い風が道路のはじっこに積もった花びらを高く高く舞わせている。麗らかな陽光を受けて、郁子の髪がひときわ鮮やかな栗色に輝く。
 春先の大学のキャンパスは新入生たちで喧しい。郁子もそのひとりだ。まだどこに何があるかもわからない中を歩くとあちらこちらからサークル勧誘の声がかかる。春の恒例行事のひとつ。
 郁子が目をとめたのは、天文学のサークルだった。受験勉強に疲れると窓から夜空を見上げて星の数を数えた。郁子は星を見るのが好きだった。長い受験勉強を終えても視力2.0をキープしているのは星のおかげだと信じ切っていた。
「すみません、あの・・・」
「はい?」
天文学サークルのテントブースにいた学生が眠たげな声で答える。
「あの・・・参加したいんですけど、ここのサークル」
「あ、じゃあこの用紙に学籍番号とか書いてくれる?」
なんだかやる気あるのかなこの人・・・郁子は一抹の不安を感じながらも、ま、大学のサークルなんてそんなもんかもと思い返し自分に言い聞かせるようにして、用紙に向かった。
「学籍番号と、所属学部と、名前と、住所と・・・」
一つひとつ丁寧に書いていく。春の強い風がテントの屋根を時おり激しく揺らすその音がやけに耳に付いた。
 その風が一瞬凪いだとき、ちょうど自分の住所を書き込んでいたとき、さっきの学生がぽつりと
「『字』だって。まだそんなところあるんだ」
とつぶやくのが郁子の耳に届いた。郁子は一瞬何を言われたのかわからず、それでも何かが胸の中でざわめくのを感じて手を止めた。
「どこにあるの、その住所? どっから通ってんの?」
「え・・・自宅からですけど・・・」
「えらい田舎から通ってんだね」
心配性の両親が、女性のひとり暮らしなど危ないと自宅からの通学を条件にして進学を許可してくれたことなど、この学生が知る由もない。だが自分の地元を田舎呼ばわりされて、気分のよかろうはずがない。



「バカ、お前何失礼なこと言ってんだよ、ごめんね、こいつデリカシーなくてさ・・・あ、どうぞどうぞ続けて続けて」
気が付くとまた別の男子学生がいつの間にかそこにいて、郁子に詫びながらその失礼な学生を小突いていた。
「お前に任せてたら来る子も来なくなっちまうよ、ほれ、ここは俺に任せてお前何か飲み物でも買って来いよ」
もうひとりの学生は足取りも軽やかにその場を去っていった。よほどここにいるのが面倒だったのだろう。郁子は振り上げようとした拳の行く先をなくしたようで、中途半端な気持ちながら、でもどこかで安心していた。
「本当に失礼した、申し訳ない。ぼくはサークルの部長で、経済4回の田口健児。みんな健児って呼ぶから」
郁子にはそれが「キミもこれからは健児と呼ぶように」ということなのだということがわかった。強制するような言い方ではないけれど、どこか逆らえない。柔らかな物腰だけど、黙って言うことを聞かせられる。あぁこういう人もいるんだと思いながら、郁子はサークル活動の説明をする健児の声を聞いていた。




 それから12年、いま郁子はマンションのリビングに健児と向かい合って座っている。大きな窓から射し込む光は12年前と同じように麗らかで、カーテンを大きく揺らす風も、同じように強い。この12年の間に、ふたりは先輩後輩の間柄から、恋人同士、そして夫婦へとかたちを変えながら同じ時間を過ごしてきた。
 そして今、何も言わずに郁子の前で離婚届を書く健児がいる。
 それをまた何も言わずに見つめている郁子がいる。


「これで・・・よし、と。じゃ、あとは郁子、キミだ・・・」
それだけ言うと健児はベランダに煙草を吸いに出た。その背中を見やりながら、郁子は小さなため息をついた。
 何度もやり直そうと思った。初めて会ったときのあの声と物腰を、プロポーズの一生懸命な姿とその震える声を、婚姻届を出すときの「これで『字』もなくなるな」と茶化すような声を、一つひとつ思い出しては、何度もやり直そうと思った。
 でもそのたびに、過去の声ばかりで今の健児の声が聞こえてこないことを、いつからか会話がなくなってしまったことを思い、ふたりはもうだめだと打ちのめされる。ここ数年はその繰り返しだった。


「じゃ、これは俺が出しておくから。引っ越しの日程わかったらまた携帯にかけて」
届けを受け取った健児はそれだけ言うとまたベランダに出た。健児の短い言葉に「もうこれで終わったから、早く出ていけ」というメッセージが含まれているのを感じ取って、郁子はこれが健児なんだと思った。
 この人は決してあぁしろこうしろとは直接口に出しては言わない。でもこの人と話していると、何もかも彼の思い通りに動かされている気がしてくる。自分が今していることは、自分の意志なのかそうではないのか、だんだんと麻痺してくるのだ。
 わたしは麻痺しきれなかったな・・・だから別れるんだと郁子は自分に言い聞かせるように、説得するように胸の中で何度も反芻した。麻痺していれば楽だったろうに。お人形になってしまえば、このままいつまでも健児のそばにいられただろうに。いてもいいと思われただろうに。



「わたしね」
バッグと上着を手に椅子から離れ、ベランダの健児の背中に向かって、郁子はゆっくりと話し始めた。
「あなたと初めて会ったときのことは、きっと忘れない」
あの日、健児の言葉の裏側にある意図を読み取れたことが嬉しかった。それから何度も健児の短い言葉に込められた意図を感じられるのが嬉しかった。
 でもそれは、自分だけに向けられたものではなかったのだ。この人は、いつどんなときも、誰に対してもこうなんだ。その言葉の裏側を推し量って、得意になっていたのは自分だけだったのかもしれないのだ。さっきの健児の最後の言葉を聞いたときに、その疑念は郁子の中で確信に変わっていた。
「わたしほどあなたを思った人はいない。他の誰よりも」
でももうそれも終わりなのだ。もう健児の言葉の裏を思う必要などないのだ。言葉の裏を読み、思いを巡らせることはないのだ。
「だから」
健児はそれでもこちらを振り向くことはない。
「さよなら」




 何年かぶりに訪れた町役場、郁子は久しぶりに旧姓で名前を呼ばれたために気づくのが遅れた。
「どうもすみません」
「じゃ、こちら、住民転入完了しましたんで。それとこちら戸籍謄本の写しになります、ご確認くださいね」
待合室に戻って、封筒から謄本を取り出す。あのあと実家に戻ってそれからすぐに役場を訪れていた。受け取ったばかりの戸籍謄本。本籍地には12年前と同じように「字」の文字が残っていた。
 これからずっとこの文字を見るたびに、健児のことを思い出すだろう。あの麗らかな風と春の陽光を思い出すだろう。「字」の字とともに、あの春の出会いとこの春の別れは、郁子の心の痣となってずっと離れずについてくるのだろう。

東京アワー / さくらいく